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【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】明菜が獲らないと賞の権威失う…「ミ・アモーレ」レコ大受賞の真相 審査員の中では「マッチ有利」の声が圧倒的

 1985年-当時、暮れの“2大音楽賞イベント”というと、日本テレビ、フジテレビ、テレビ朝日、テレビ東京が持ち回りで東京・日本武道館から中継する「放送音楽プロデューサー連盟」主催の「日本歌謡大賞」、そして大みそか(現在は12月30日開催)にTBSが中継する「日本作曲家協会」主催の「日本レコード大賞」だった。

 この年、中森明菜はデビュー以来の制作陣を一新し、アーティスト色を前面に出したサウンド志向にシフトし、『ミ・アモーレ[Meu amor?…]』『赤い鳥逃げた』『SANDBEIGE-砂漠へ-』、そして『SOLITUDE』と作品を発売。その“総決算”として「レコード大賞」獲りに名乗りを上げたのだが…。当時を知る音楽関係者の話である。

 「本来なら、この年の明菜に対抗するのは『あの娘とスキャンダル』『神様ヘルプ』とヒットを連発していたチェッカーズです。ところが審査員の中ではマッチ(近藤真彦)有利の声が圧倒的だったと記憶しています。マッチはCBS・ソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)に移籍したので、ソニーにも意地もあったのだと思います。しかし、データも含め明菜がダントツでした。もっとも、マッチが賞獲りを宣言したのは明菜より前だったので情勢が変わったということですが…」

 当時、賞レースに関わったソニーの関係者はこう話す。

 「近藤の移籍ははっきりいって販売力の違いです。ウチのほうが販売力はあったので、事務所が近藤にとってプラスになることを考えるのは当然です。ただ、賞レースはケース・バイ・ケースです。もちろん事務所とは話し合いますが、最終的にはわれわれが判断することです。85年は確かに近藤が『日本歌謡大賞』で大賞に輝きましたが、そもそも、この賞はテレビ、ラジオ局の音楽プロデューサーが選ぶ賞なので、『レコ大』とは趣旨が違う。そこは明菜さんと比較できないと思いますね」

 その上で「レコ大」については、「正直、マスコミが勝手に騒いでいたと思いますよ。この年は映画(『愛・旅立ち』)の公開もあって、マッチと明菜の交際が噂になっていたのは確かで、何かと2人が話題になった。ワイドショーや週刊誌も視聴率や販売に影響しますからね。“一騎打ち”などと盛り上げるわけですよ。ただ記憶している限り、『レコ大』は考えていなかったですね。そもそも『ヨイショッ!』(移籍第1弾)も思ったほど売れませんでしたから…、さすがにわれわれもこの曲で勝負しようとは考えません。マッチに限らず、すべては実績作りです。その上での評価なので、何が何でもというわけではありません。むしろ、この年は明菜さんの活躍が目覚ましかったことは疑いのない事実ですからね」。

 結果は明菜が「ミ・アモーレ」で大賞を受賞した。当時を知る古参の音楽記者はいう。

 「毎年、暮れになると賞レースが騒がれましたが、正直獲れるか獲れないかは、歌手の人気や実力というより、ほとんど事務所、あるいはレコード会社の力です。そういう意味では明菜の大賞は事務所やレコード会社的には、本来ならハードルが高かったかもしれません。それでも大賞に輝いたのは、暮れが近づくにつれて、ここで明菜が獲らなかったら賞の権威が失われてしまうのではないかという危機感が審査員、業界全体に漂い始めたことがあるでしょう」

 ちなみに、85年の「レコ大」の視聴率は、31・4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)と前年よりも1ポイント上がることになった。 =敬称略 (芸能ジャーナリスト、渡邉裕二)

 ■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』で合格し、82年5月1日、シングル『スローモーション』でデビュー。『少女A』『禁区』『北ウイング』『飾りじゃないのよ涙は』『DESIRE-情熱-』などヒット曲多数。NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。

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