また一人、昭和のテレビ界を支えた大スターがこの世から旅立たれました。永六輔さんの後を追うようにして、大橋巨泉さんが、この7月に82歳で亡くなりました。
巨泉さんの胃がんが発覚したのは、2005年のこと。実に10年以上の“がんとの共存”でした。今回は、巨泉さんの書かれた本『がん 大橋巨泉の場合』(2005年、講談社刊)を参考に、がん発覚後の前半の闘病を追っていくことにします。
最初のがんが発覚したのは、毎年定期的に受けていた人間ドックでの胃カメラ検診でした。巨泉さんは、1968年から毎年人間ドックを受けていたそうです。これは大変稀有なことで、1960年代から世紀を跨いで人間ドックを受けている人などほとんどいません。我が国の人間ドックの始まりは、1954年のこと。その実験台(試運転)には、日本画家の権威・東山魁夷さんや、政治評論家の細川隆元が協力したと言われています。当初人間ドックは、「短期入院精密身体検査」という覚えづらい名称でしたが、メディアの呼びかけで「人間ドック」という名称に取って変わりました。ドックとは、船の修理をする場所の「ドック」から来ています。
この「人間ドック」の語源については、私の出身大学の先輩で、作家でもある山田風太郎が『人間臨終図鑑』という名著の中で、あの偉大な軍人・大山巌が、「人間も船と同じで時々ドックに入って検査をしないといかん」と言ったことに由来すると書かれています。言われてみれば、いかにも軍人らしい発想です。
巨泉さんがこれだけ熱心に人間ドックを熱心に受けていた理由。それは、実のお母さまをがんで失ったからだといいます。巨泉さんのお母さまは53歳、まだ巨泉さんが早稲田大学の学生のときに、子宮がんで旅立たれています。昭和29年のことです。お母さまの子宮がんは、当初、子宮筋腫と診断されて、「このくらいの筋腫は、閉経すれば無くなってしまう」と医師に言われて放置した結果、手遅れとなったそうです。