16日、心不全のため84歳で死去した作曲家、船村徹さん。公私ともに交流があり、「流行り歌徒然草」でもたびたび船村さんについて書いてきた獅子丸好(本名・篠木雅博)氏が船村さんとの思い出を綴った。
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先生を失い、ご家族や多くの歌手、ファン、仲間たちは深い悲しみが重なって、2月16日は特別な日となった。
音楽の仕事をして、船村先生とめぐり会い、歌作りの厳しさ、謙虚さを教えていただきました。
僕は演歌歌謡の制作を主にしていなかったので仕事をする機会は多くはなかったが、五木ひろし、千昌夫では制作を担当としてお世話になりました。
浅草寺で五木の新曲発表会を行ったときは、栃木から駆けつけていただき、裏方の僕まで労っていただいたことは忘れない。千昌夫では、東日本大地震の惨状に「これは歌で残さなければ」と自ら申し出られて、楽曲ができあがりました。
春日八郎「別れの一本杉」、美空ひばり「みだれ髪」、北島三郎「なみだ船」、村田英雄「王将」、鳥羽一郎「兄弟船」…。半世紀で5000曲以上を作曲し、数えきれないヒット曲を世に送り出してきました。
いつも庶民の目を忘れない方でした。それは昨年、これまでの作曲活動を認められ、文化勲章を受章されたことでも分かります。このときの会見では「自分は不器用だが、大衆芸能に少しでも力になりたい」と語っていたのが印象的です。
先生とは仕事仲間とともに温泉旅行やゴルフ、お酒と遊びました。先生は威厳があり、近寄りがたくも感じる一方、とても気さくで、冗談好きの人でもありました。
レコード会社の専属作家制度があり、作詞家、作曲家は専属でないと仕事ができない厳しい環境だった1960年代の苦労話もユーモアたっぷりに聞かせていただいた。