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【パリッコの「酒飲み12カ月」】去りゆく夏にしがみつくため、海へ

 朝、仕事場へ向かうために家を出ると、少し前まであんなに威勢のよかった蝉の大合唱が聞こえない。かわりにあちらこちらから、リリリ……リリリ……と、切なげな虫たちの声。見上げればうろこ雲。認めたくはないが、終わろうとしているのだ。夏が。この、なんの不快感もない外気温が懐かしく、たまらなく寂しい。悔しい。

 思えば今夏は、フリーランスになって初めての夏だった。昼間からあちこちの街へ出かけていって酒を飲むことも多く、それが仕事ではあるけれど、毎日が夏休みのような日々だったともいえる。が、何かが決定的に足りない。そうだ、海を見てないんだ。正確には、砂浜、ビーチを。よし、2019年の夏にけじめをつけるため、海へ行こう。

 JR湘南新宿ラインの恩恵もあり、僕の住む石神井公園から一番スムーズに行けるのは、鎌倉や逗子の海ということになる。今日の気分は鎌倉じゃない。もっと何もない、逗子のほうだな。

 片道約1時間半、往復で3時間。ちょうど今、自分の書いた大量の原稿をチェックしなければいけない仕事があり、これなら電車内でも作業ができる。逗子で1時間ちょっと過ごしたとして、行き帰りに仕事をすれば昼休みの範囲内だろう。すみやかに準備をし、午前11時の電車に、迷いなく乗り込んだ。

 思いたってから約2時間後には逗子駅に到着。

 道すがらふりかえってみて驚いたのだけど、この街に前回来たのはもう7年も前だ。仲間うちでやっているインディーズのダンスミュージックレーベルがあり、逗子にある一軒の海の家で、DJパーティーを開催したのだった。ゲストDJも友達ばかり。昼間から夕暮れにかけて、砂浜に向かって好きな音楽をかけ、ふらふらふらと踊り、気が向けば泳ぎ、屋上でビールを飲んだ。今となっては夢の中の出来事のようにも感じる。ああいうのこそが、ザ・夏の思い出だよな。

 そんなことをぼーっと考えていたら、仕事をする間もなく着いてしまった。

 コンビニで缶チューハイを買ってサーモスの保冷缶ホルダーにセットし、逗子銀座通りを歩く。海に近い土地ならではの能天気な街並みに身体がゆるむ。駅前の喧騒エリアを抜けたら、プシュリと缶を開け、ちびちびと飲みながら歩く。10分もかからず、逗子海岸が見えてきた。

 サンダルのまま波打ち際まで行き、ちゃぷちゃぷと足を浸しながら歩く。季節外れの海水浴場の水は透き通り、冷たくもぬるくもない。やっぱりいいな。海は。

 一軒くらいまだ海の家が営業していて、そこで生ビールでも飲めたらと期待していたんだけど、どこもすでに骨組みだけになっている。その中でバーベキューの準備をする一団。一夏の労働の打ち上げだろうか。あいにくの曇り空の下、真夏のような水着姿で砂浜に寝そべるギャル2人組。唯一泳いでいる若い男2人組。波打ち際ではしゃぐカップル。いなたくウクレレをつまびくカップル。砂浜に体育座りし、イヤフォンでじっと音楽を聴いている外国人女性。自分も含め、ここにいる誰もが、あきらめきれずに夏にしがみついている人たちなのだ。気づけば蝉が鳴いている。

 そのまま海岸の端まで歩いてゆくと、海辺の街道沿いに一軒の定食屋が見えた。「まるわ食堂」。どうやら営業中らしい。なんという絶好の立地。入るに決まっている。

 看板メニューは1500円の「まるわ定食」のようで、刺盛り、アジフライ、魚の煮付け、しらすおろし、南蛮漬けに、味噌汁と漬物とご飯がつくらしい。が、食べきれない予感がするので、1300円の「D定食」にした。地魚5点盛り定食だそうだ。もちろん缶ビールも頼む。券売機を見ると、各種定食やカレー、ラーメンなんかもあって、いわゆる地元民向けの普通の定食屋のようだ。いいなぁ。

 海の見えるテラス席でちびちびとビールを飲みながら待っていると、D定食完成のアナウンス。受け取りにいって驚いた。お盆に超豪華舟盛りが乗っている。どこからどう見てもうまそうな地魚の刺身が、船から躍り出んばかり。これで1300円? 海辺の街のポテンシャルおそるべし。内容は、アジ、イワシ、イサキ、ワカシ、ブリ。どれもとろりと旨味濃厚でおそろしくうまい。用心して半分にしてもらったご飯も、普段自分が食べている一膳ぶんくらいはあり、米自体がまたうまい。刺身をつまみにビールちびちびを想定していたんだけど、定食ガツガツ方面にシフトしてしまい、合間に思いだしたようにビールを飲む形。これなら麦茶でも良かったんじゃないかって気もするが、食べ進めるうちにぐんぐんヒットポイントが回復していくような貴重な一食になったので良しとしよう。

 すっかり満足し、帰りの電車でぐっすりと寝て帰る。よし、これでけじめはついた。未練はあるけどいつ秋が来てもいい。

 うん、それはいいんだけど、今日、全然仕事してないな……。

■パリッコ 酒場ライター。著書に『酒場っ子』『晩酌百景 11人の個性派たちが語った酒とつまみと人生』、スズキナオ氏との共著に『酒の穴』『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』。「晩酌ほろ酔いクッキング」(漫画ゴラク)「今日は早退します!」(東京ウォーカー)他、連載も多数。TV東京「音流~ONRYU~ 酒場サーキット」出演中。

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