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【東京舞台さんぽ】文人が描いた“歴史の表裏” かつて花街が栄えた柳橋

 東京を西から東へ流れる神田川が隅田川に注ぎ込む所に、緑色に塗られたアーチ橋「柳橋」が架かっている。橋の北は台東区柳橋、南は中央区東日本橋。かいわいはかつての花街で、そのにぎわいは文人たちの筆で書き残されている。

 幕末、明治の柳橋を軽妙な漢文に乗せた「柳橋新誌」は、代々続く奥儒者の家に生まれ、文武の官僚、漢詩人、随筆家、ジャーナリストとして多方面で才能を発揮した成島柳北の著作。維新前に書かれた初編は、柳橋が深川に代わって繁栄を迎えた経緯を説き、料亭や船宿、芸者について案内記風に述べる。第2編は明治新風俗を背景に、柳橋の表裏を皮肉な目でスケッチした。

 柳橋が最初に架けられたのは、江戸時代中期。当時の名称は「川口出口之橋」だった。「柳橋」になった理由は諸説あってよく分からない。明治の中ごろ鉄橋に架け替えられ、それが関東大震災で落ちた後、現在の橋が隅田川の永代橋に似たデザインで建設された。

 料亭がほとんど姿を消した今、わずかに花街の華やぎをしのぶよすがとなるのが、石塚稲荷神社だ。JR総武線のガード近くに鎮座する小さなお稲荷さんは、気を付けないと見逃してしまいそう。鳥居の両側に立つ石柱に「柳橋藝妓組合」「柳橋料亭組合」の文字があった。玉垣には料亭や芸者衆の名前が刻まれている。

 船宿は今も神田川の両岸にある。大小の船が浮かび、水鳥が川面に舞い降りて泳ぐ。三味線の音や歌声、ざわめきは聞けなくとも、この風景はいつまでも残ってほしい。

 【メモ】中央区が柳橋の歴史を紹介するために建てた碑には、正岡子規の2句「春の夜や女見返る柳橋」「贅沢な人の涼みや柳橋」と、橋の情景を描いたレリーフが添えられている。

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