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【桂文治】襲名披露興行で熱演! 大看板も“心配り”にぬかりなし

2012.10.17


11代目 桂文治【拡大】

 新宿・末広亭の9月下席からスタートした都内3場での連続襲名披露興行は、もうすぐ一区切り。連日の熱演、ゲストも豪華、いかにも大看板にふさわしい高座である。ところが、1枚のカベを隔てた楽屋では、十一代目の気配り、心配りは相当なものらしい−そんな声が聞こえてきた。

 「祝っていただいた人やお客さまは当然として、出ていただく皆さんにも気持ち良く、です。たとえば、楽屋でお出しするもの。召し上がっていただくものにも気を抜けません。だって、あいつの披露目の時は毎日同じものだった、前の日の残りを平気で出していた、なんて絶対にいわれたくない。この世界、セコいことをすれば生涯、陰口をいわれるものです」

 初代から218年。桂の宗家という大名跡を継ぐには、とてつもないプレッシャーと入念な下準備、そして資金も必要だった。何ひとつ、手抜かりがあってはならない。

 高校を卒業して、先代の内弟子に入り、みっちり鍛え上げられた。噺家としての矜持が、日常生活にまで入り込んだ。普段から着物で通すのも心意気のひとつだ。

 「洋服は10年も経てば時代遅れになる。でも、着物は流行がないし、傷んでもちゃんと直してもらえる。いいものなら、着れば着るほど味が出る。高座では、噺のじゃまにならず、他の噺家さんと衣装がかぶらない黒と決めているから、プライベートでは(色で)おしゃれをします」

 「内弟子で5年間、師匠とひとつ屋根の下。プレッシャーの連続でプライベートがない代わりに、食べ物や家賃の心配はなく、お金を使うところがなかった。たまったお金で、着物を買いそろえていったんです。時代劇が好きだったし、私、池波(正太郎)作品の大ファンだから。あこがれは、鬼平」

 二ツ目になり、ひとり暮らしが許されると、意外な趣味が加わった。

 「子どものころから虫が好きだった。それもカブトムシ。自宅で飼うようになりました。いいカブトムシを見つけるためには、誰よりも早起きして遠くまで−。そんな思い出が男の子にはある。今年は(千葉の)木更津まで行ってきました。もっとも私は、見つけるだけではすまない。卵から成虫になるまで。要はブリーダーです」

 もちろん、本業も精進の日々。入門以来、日々のけいこは欠かしたことがない。

 「朝ごはんを食べる前がいい。寝る前はいけません。いろいろ考えて寝付けなくなるでしょう。私の健康法は大きな声でおしゃべりをすること。運動らしい運動をしなくても、健康でいられます」

 ところが、2005年には脳下垂体に腫瘍が見つかり、手術。生死を分ける病気を経験した。が、入院中には、ときめきの出会いがあった。所属する芸術協会では、春風亭昇太と「独身ツートップ」といわれるが…。

 「私、いろいろ言われますが、独身主義ではございません。病気で入院した時、この人がいいと勝手に決めた看護師さんがいました。何とかしなければ…、退院の日に自分の思いを伝えよう、と一大決心したんですよ。ところが、看護師さん、その日が公休でした。縁がなかったとあきらめたしだい。まぁ、50歳になるまでには何とかしたいと思っています」

 先代は高座に限らず、芸術家名鑑へ記される唯一の噺家になるなど、さまざまな顔があった。だが、都市伝説にまでなるとは思ってもいなかったろう。女子高校生が「ラッキーおじさん」と呼んだのだ。『西武池袋線の車中で、着物でステッキ、茶色のかばんをもった変なおじさんがいる。でも、そのおじさんを見ると、決まっていいことがあった』。ラジオ番組で投稿が紹介され、口コミで有名人となった。当代はまだステッキの必要はないが、着物姿で電車通勤している。これなら、ラッキーおじさん2代目の襲名も近い。

 「真打ちになったのが13年前の1999年で、(ノストラダムスの予言で)恐怖の大王が来るといわれた年。それで、今年は(マヤ文明の神話で)地球がなくなるっていわれてきた。その年に文治を継ぎました。初心生涯の気持ちを忘れずにつとめます」

 この笑顔が、地球滅亡を救ったのだろうか。これだけ、うれしそうにほほ笑む人はそうお目にかかれない。(ペン・やなぎ喬、カメラ・古厩正樹)

 ■かつら・ぶんじ 1967年8月25日生まれ、45歳。大分宇佐市出身。86年、十代目桂文治に入門して、「がた治」。90年、二ツ目に昇進して、「平治」。99年、真打昇進する。今年9月に十一代目文治を襲名。94年、NHK新人演芸大賞・落語部門大賞、98年に林家彦六賞、2009年には、文化庁芸術祭新人賞を受賞。襲名披露公演は、20日まで池袋演芸場、11月11−20日、国立演芸場で行われる。

 

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