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【巨匠・森谷司郎が描く 日本の光と影】紫がかった肌は本当に凍傷、過酷な撮影に脱走した俳優も 「八甲田山」

 日本の映画史上に名作の数々を残した監督、森谷司郎が亡くなって35年がたつ。その名作秘話を振り返る。

 森谷といえば、やはり1977年公開の「八甲田山」だ。当時、北大路欣也ふんする神田大尉の「天はわれわれを見放した」というセリフが流行した。

 1902(明治35)年、日本は中国進出を狙うロシアに対抗するため厳寒の装備と対策が必要となり、弘前第八師団が雪中行軍を計画。青森歩兵第五連隊の中隊長・神田大尉(北大路欣也)と弘前歩兵第三十一連隊の中隊長・徳島大尉(高倉健)が指名される。

 27人の少数精鋭で組んだ徳島大尉に対し、神田大尉も小規模での行程を具申したが大隊長の山田少佐(三國連太郎)は210人の大行軍を命じる。雪が吹き荒れる冬の八甲田山で、神田隊は四散。その結果兵士は吹雪の中に次々と倒れてしまう。徳島大尉は賽の河原で彼の死体を見つける。神田大尉は隊が全滅した責任をとって自決したのだった。

 撮影は映画史上類を見ない過酷だった。実際、裸で死ぬ兵士の肌が紫がかってみえるのはメークでなく、本当に凍傷にかかりはじめていたのだ。この過酷な撮影に耐え切れず脱走した俳優もいたという。

 高倉健は長期にわたる撮影を見越し、自分のマンションと愛車のメルセデス・ベンツSLを売ってしのいだ。自身も軽い凍傷にかかったと後に語っている。

 撮影スタッフも死ぬほど苦労した。大雪の山中に大型の照明器具は持ち込めず、電源も確保できない。カメラの木村大作は「兵士がバタバタと死んでゆくだけの映画がヒットするとは思えなかった」と回想したが「この映画がなかったら今の自分はいない」とも。雪崩でカメラが埋まるという命がけの毎日。高倉は「監督より先にOKを出すカメラマンを初めて見た」と驚いたという。

 製作側も当初は東映に持ち込んだが、後に日本映画界のドンといわれた岡田茂社長が「明治ものなどウケルかい」と否定的で、やむなく東宝に持ち込んだとか。

 神田大尉役は最初、渡哲也だったそうだが、健さんのたってのご指名で北大路欣也になった。撮影現場の駒込川渓谷、田代元湯は現在「駒込ダム」を建設中で将来はダムの底に沈むことになる予定だという。(望月苑巳)

 ■森谷司郎(もりたに・しろう) 1931年9月28日~84年12月2日。53年に早稲田大学文学部卒業後、東宝の助監督試験に合格し入社。成瀬巳喜男、黒澤明の作品で助監督を務める。66年に加山雄三主演「ゼロ・ファイター 大空戦」で監督デビュー。70年代には大作映画でヒットを連発する。

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