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「君が代」と「唱歌」と「明治頌」(8)

 国歌「君が代」は、音楽的には、西洋的な音楽理論による分析を適応しにくい、いわゆる「雅楽」の体を強く残した楽曲です。こうした楽曲は、伊沢修二に代表される、明治という近代国家に相応しい、西洋的なパキッとした和声進行に乗っ取ったあらたな「音楽」の教育を推進しようとしていた当時の文部官僚たちにとっては、あまり好ましいものではなかったと想像されます。彼らは、しっかりした機能和声に則った楽曲による「国歌」の試作も、当時独自に試みていた模様です。

 しかし、彼らは自分たちの試作品を無理に「国歌」として押し出すことをせず、海軍省と宮内省によって作られた現行の「君が代」について、それが政府内で好意を持って受け入れられていることをかんがみて、その楽曲が公式採択されることに従ったのです。

 もちろん、単純に、互いが作った楽曲の良し悪しによる判断もあったのだと思います。現行の「君が代」は、明治初期の新旧両陣営のヘゲモニー争いが反映された、とてもスリリングな名曲だと筆者は思います。そして、(いや、しかし?)、初等教育用の「唱歌」制作において、伊沢らがほぼ完璧に「雅楽的」なサウンドの排除をおこなっていることから考えると、「国歌」という最大の儀礼音楽においては、当時政府内で強い影響を持ち始めていた「国粋主義」的な派閥の面子を立てるような雅楽調を残し、そして、これから先の日本を担う教育の現場においては、ヨーロッパ/アメリカ育ちの「グローバル」な「ドレミ」システムを全面採用する、という、当時の文部省の意向が明治の「音楽」の定礎の瞬間に働いていたのではないかと思います。

 この想像はほとんど妄想に近いものかもしれません。もちろん、ある一人の官僚の判断だけが、その後の「音楽」の趨勢を決めてしまうということはあり得ないことでしょう。事態はもっと複雑だったはずです。

 が、しかし、たとえば、同時期に文部省が公式式典用に制作し、制定した、いわゆる「祝日大祭日唱歌」というものを見てみましょう。

 国の祝日に、国民がその祝いの儀式で唄う歌である「祝日大祭日唱歌」。以後、敗戦まで長きに渡って歌い継がれてゆくことになるこの「日本公式音楽」の代表は、国歌「君が代」も含めた、「君が代」「勅語奉答」「一月一日」「元始祭」「紀元節」「神嘗祭」「天長節」「新嘗祭」の八曲です。

 そして、この八曲の曲調のバランスが、あらためて聴いてみると結構絶妙というか、「うーん。なるほど……」と唸ってしまうような、軍部と宮内省と文部省のそれぞれのメンツが立つような楽曲の選択になっているんですね。改めてその全曲を聴きなおしてみると……伊沢的な方向が望んでいた、「完全洋楽系」の楽曲は「一月一日」(「とーしーの初めの~」ですね)、「天長節」、「勅語奉答」(いい曲!)と、八曲のうちの三曲であることがわかります。

 で、曲全体が雅楽の音調で通されている曲が、「元始祭」「新嘗祭」と、あと「君が代」の三曲。

 で、残りの二曲、伊沢修二自身が作曲した「紀元節」は、メロディーが最後トニックにきちんと落ち着くけれども、前半部分の旋律にはちらっと雅楽っぽい動きがある、ポップスの用語でいうならば、いわばコード部分とモード部分がハーフ&ハーフになっている曲です。そして残りの一曲の「神嘗祭」は、冒頭部分はほとんど讃美歌的な洋楽感があるんですが、終わりに行くに従って雅楽的な「律」に引き寄せられてゆく、これまた邦楽と洋楽がハーフ&ハーフになっている曲なのです。

 調べてみると、この祝日歌は、なんと、洋楽派・開明派も国粋派・復古派も、それぞれが納得するような、3対3(+半分づつが2)の曲調の組み合わせになっているんですよ。

 もちろんこれは伊沢一人によって仕組まれたことではなく、いわばこの時代の総意がこのような楽曲の配分を選ばせた、ということなのだと思います。作曲に参加したチームのメインは、雅楽者+軍楽隊系の組み合わせでした。

 儀式用の公式音楽には雅楽系のサウンドを配置し、そして、学校で教えるべき「唱歌」は、そのほとんど全てを「蛍の光」的なグローバル・サウンドで統一する。そして、しかし、そのグローバルなサウンドから、「讃美歌」的なキリスト教臭は徹底的に排除しておく……。日本の「唱歌」の始まりには、このような深慮遠謀があったのだと思います。

■大谷能生(おおたに よしお)

 音楽と批評。ミュージシャンとしてジャズを中心に、さまざまなバンドやセッションで活動。著作としては『平成日本の音楽の教科書』、『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』、『東京大学のアルバート・アイラー』(菊地成孔との共著)、『日本ジャズの誕生』(瀬川昌久との共著)、『身体と言葉』(山縣太一との共著)など多数。

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