【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】大の大人とも闘う少女! 「少女A」ヒット直前の裏で…不可解なプロモーター外し - zakzak:夕刊フジ公式サイト

記事詳細

大の大人とも闘う少女! 「少女A」ヒット直前の裏で…不可解なプロモーター外し

 1982年7月28日に発売された中森明菜のセカンドシングル「少女A」はチャートが初登場40位と思わしくなかった。だがワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の邦楽宣伝課で明菜のプロモートを担当していた富岡信夫氏(現モモアンドグレープスカンパニー代表取締役)はユーザーの盛り上がりを肌で感じ始めていた。

 「デビュー曲の『スローモーション』とはレコード店の動きが明らかに違っていました。われわれはレコード店の仕入れ状況など毎日の動きを“デイリー”といってチェックしていますが、『スローモーション』と違って、とにかくスピード感があった。メーカーのプロモートはその動きを見ながら宣伝展開も考えますが、『少女A』は、初動を見ただけでこれはイケると感じていました」

 が一方、富岡氏には悩ましい出来事があった。

 「今だから言えますが『少女A』の発売前後で明菜の現場を一時的ですが外されていたんです」

 どういうことか?

 「詳しい理由はよく分かりませんが事務所の意向だと思います。結局、メーカーの人間なのに明菜と仲が良すぎるというか…。自分で言うのもおかしな話ですが明菜とは本当に気が合いました。同じ絵を見ても感覚があったというか…。それをよく思わない人がいたのかもしれません。仲がいいといっても私自身は明菜に悪い部分はちゃんと説明して注意もしていました。明菜はそれを理解して信頼してくれていたと思います。ところが現場のマネジャーはよく代わっていました。『少女A』までに3人ぐらい代わったのでは。理由はわかりませんが『今度、明菜を担当することになりました』って…。結局、レコード会社のプロモーターと事務所のマネジャーは立場や役割もまったく違うし、明菜自身も態度が違っていたはずですが、事務所からすると面白くない部分も多々あったでしょう」

 明菜自身も雑誌などのインタビューで当時を「日々が闘いでした。いや、闘いどころの次元ではなかった」と振り返っていた。特に10代の頃については「大の大人を相手にしているわけですから、何でこんな子供に、ましてや女に、こんなことを言われなくてはいけないのかって、まず男性の方が拒否反応を起こしてしまう。いくら大人だって、出来ない人は出来ないし、使えない人は使えない。そういう時に『何やっているんですか?』って言ってしまうから、生意気だって叩かれてしまうんですね」と語っている。

 夏休みに向けて計画していた全国30万人都市キャンペーンが幻に消えたことも、あるいは富岡氏が一時的に現場を外れたことが裏事情としてあったのかもしれない。

 「北海道なら札幌にプラス旭川と函館。九州なら福岡にプラス宮崎、熊本…と、人口30万人以上の都市を回るキャンペーンを提案していたのですが、地道に全国を回るプロモーションが有効だという考えは今も変わっていません。ただ、あの時は急に明菜のスケジュールが入り始めていたこともあり、私の問題というより現実的にできる状況ではなかったことは確かでしょう。明菜自身も決して体が強いわけではなかったですからね」

 そして…、初登場40位でスタートした「少女A」は発売1カ月後の8月30日付オリコン・チャートでは24位にまでランクアップ。富岡氏はワーナーで明菜の制作宣伝を統括していた寺林晁氏(現エイベックス・レーベル事業本部アドバイザー)から呼び出された。

 「事務所には俺から言っておく。他はいいから明菜の現場につけ」。

 まさにツルの一声だった。富岡氏は明菜のプロモート担当に復帰した。 (芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)

 ■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、54歳。東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』で合格し、82年5月1日、シングル『スローモーション』でデビュー。『少女A』『禁区』『北ウイング』『飾りじゃないのよ涙は』『DESIRE-情熱-』などヒット曲多数。

 NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。

関連ニュース

アクセスランキング

×