【歌姫伝説 中森明菜の軌跡と奇跡】衣装、髪形…見せ方にもこだわり 「少女Aはポニーテール」自ら提案 - zakzak:夕刊フジ公式サイト

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衣装、髪形…見せ方にもこだわり 「少女Aはポニーテール」自ら提案

 『少女A』に続く『セカンド・ラブ』の選曲は中森明菜のイメージ戦略としても大成功だった。

 ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)の邦楽宣伝課でプロモートを担当していた富岡信夫氏(現モモアンドグレープスカンパニー代表取締役)は振り返る。

 「明菜の歌唱力はあえて比較するなら岩崎宏美と並んでいました。商店街のみかん箱の上でも生で歌わせることのできる子でした。しかも表現力もありました。なのでシングルは、ちゃんとコンセプトを持って選曲さえ間違わなければ、絶対に売れると確信していました」

 明菜は気性が激しく、自身が納得しないと表情に出た。それが「わがまま」や「生意気」と評されたことも多かった。

 「確かにマネジャーも何人か変わっていましたね。ウチの会社にはよくお母さんが来ていました。現場のことで不満や意見を言いに来ていたのかもしれませんが(制作宣伝を統括していた)寺林(晁)氏とは妙に気が合っていたようです。明菜はお母さんの言うことは聞いていたので、寺林氏のことは信頼していました。僕自身も明菜には言うべきことは言っていましたが、大きなトラブルは一度もなかったです」

 小さい頃から体の強い子ではなかったという。

 「お母さんも体調は心配していました。特に明菜は足が弱くて、ずっと立ち続けているのが苦手でした。撮影でも体調を崩すことが多く、よく控室でマッサージをしてあげました。自慢じゃないですが、僕はマッサージがうまかったんですよ。桃井かおりのマネジャーだった頃は、『前略おふくろ様』(日本テレビ系)の制作現場で、桃井や(脚本家の)倉本聡さんをマッサージしていました。あと、樹木希林さんにも頼まれたことがありましたね」

 しかし、『少女A』『セカンド・ラブ』の大ヒットで一気にテレビ出演や取材が増えた。さらに年末に近づくにつれ「賞レース」も加わり、スケジュールはハードになっていた。

 「年末だったと思いますが、『1/2の神話』のジャケット撮影でも体調が悪くなったように記憶しています。一宣伝マンの意見ですが、もっとセーブしてあげたかった」と振り返る。

 「これも明菜の性格かもしれませんが、納得して決めた仕事には愚痴は一切吐かなかったですね。周りに文句を言うのは、大抵は仕事の取り組み方に対してです。明菜のペースに合わせるのが大変だったかもしれません。何でもスタッフより前にやってしまう子でしたから。とにかく仕事にはストイックで、誰にも媚を売らない。16、17歳の子に大の大人が指示されるのですから、面白くないと思うスタッフもいたと思いますよ。ところが明菜は毅然(きぜん)としている。事務所も扱いには戸惑っていた部分があったと思います。それでも同期の新人歌手では、比較的レコード会社がコントロールできていた部分もあったんです。改めて思い返すと、明菜は自分の見せ方にはこだわっていましたね。テレビにはどんな衣装で出るかとか、髪形をどうするかとか…。例えば『少女A』ではポニーテールにするとか、とにかく本人から提案してくるのです。なのでマネジャーも楽ではなかったかもしれません」

 そんな中、1983年を迎え、『セカンド・ラブ』に続く、4枚目のシングル『1/2の神話』のプロモーションの準備が、発売日の2月23日に向けて本格的に始まったが、そこで思わぬ出来事が起こった。 (芸能ジャーナリスト・渡邉裕二)

 ■中森明菜(なかもり・あきな) 1965年7月13日生まれ、55歳。東京都出身。81年、日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』で合格し、82年5月1日、シングル『スローモーション』でデビュー。『少女A』『禁区』『北ウイング』『飾りじゃないのよ涙は』『DESIRE-情熱-』などヒット曲多数。NHK紅白歌合戦には8回出場。85、86年には2年連続で日本レコード大賞を受賞している。

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