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世界初の地震学会を日本に作った英国人 はじめて体験した“恐怖”胸に刻み

 世界で最初に地震学会が作られたのは日本だ。米国地震学会よりも30年以上も早く、1880(明治13)年のことだ。ただし、作ったのは英国人だった。

 その英国人はジョン・ミルン。明治政府が数多く雇った「お雇い外国人」の一人だった。ミルンは鉱山技師として日本に招待されていた。

 早急に西欧に追いつくために、明治時代には、外国人科学者や外国人教師をお雇い外国人として高給を払って日本に招いた。その人数は8000人以上にも及んだ。

 英国は地震がほとんどないところだ。小さな地震が起きれば大ニュースになる。

 ミルンが来日して3年後の1880年2月22日に横浜で地震が起きた。いまからちょうど138年前になる。

 この地震のマグニチュード(M)は5・5と推定されている。震度は4くらいだったと思われる。

 日本人にとっては、それほどの地震ではなかった。被害もいくつかの煙突の破損や、家屋の壁が落ちた程度だった。

 明治時代の文明開化で西洋風の煉瓦(れんが)建築が首都圏で増えてきていた。欧州など地震がない国では、煉瓦造りとは煉瓦をたんに積んだだけの洋風建築だ。それをそのまま真似た日本の洋風住宅や煙突が地震にいかに弱いものであるか、この地震で明らかになったのだ。

 起きたのは深夜1時ごろだったこともあり、横浜に住んでいたミルンたち外国人は肝を潰した。生まれてはじめて体験した地震だったのだ。

 この恐怖を胸に刻み込んだミルンは世界最初の地震学会を作った。当時の会員は117人だったが、日本人の関心は高くはなく日本人は37人しかいなかった。

 その後、もっと大きな地震が起きた。1894(明治27)年の「明治東京地震」だ。この地震はM7・0とずっと大きかった。

 東京や横浜などでは震度6の揺れに襲われ、31人の犠牲者を出した。当時は震度7はまだなかった。つまり最大の震度だった。

 横浜の地震に続いて起きたこの地震は、日本の耐震建築の一里塚になった。西洋から導入した建築とはちがうものが必要とされるようになったのである。

 震源は東京湾の北部だと推定されている。大きな地震の割に犠牲者がこのくらいの数ですんだのは、この地震の震源が直下型地震としてはかなり深いものだったためだと思われている。

 首都圏の地下に東から潜り込んでいる太平洋プレートと首都圏が載っている北米プレートの間に、さらに三つ目として南から潜り込んでいるフィリピン海プレート内で起きた地震ではないかと思われている。

 つまり明治東京地震は複雑なプレートの動きが起こした首都圏直下でしか起きない地震だった。

 震源が浅い安政江戸地震(1855年)のような直下型地震ももちろん首都圏でも起きる。この地震は震源が浅かったので約1万人の犠牲者を出す大被害を生んだ。

 他の地域でも起きる地震に加えて、首都圏の地下には、さまざまな深さの直下型の地震が起きる可能性があるのだ。

 ■島村英紀(しまむら・ひでき) 武蔵野学院大学特任教授。1941年、東京都出身。東大理学部卒、東大大学院修了。北海道大教授、北大地震火山研究観測センター長、国立極地研究所所長などを歴任。著書多数。最新刊に『完全解説 日本の火山噴火』(秀和システム)。

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