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「琉球処分」の目的は… 欧米列強の沖縄・本土侵略の阻止

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 沖縄は、世界の歴史の大きな転換期に、常に本土を守るための最前線となってきた。おびただしい数の犠牲者を出した第二次世界大戦末期の沖縄戦は、米軍の本土上陸戦を阻止するためのものだった。1609年の薩摩藩による琉球侵攻は、スペイン、ポルトガルが琉球を入り口に、本土を侵略する意志を阻止するためだった。明治12(1879)年の「琉球処分」も同様だった。

 明治新政府が安定するには、しばらく時間がかかった。同10(77)年には西南戦争が起きている。同4(71)年、全国的な「廃藩置県」が行われた。琉球国は翌年、「琉球藩」となった。県でなく、藩としたのは朝貢していた清国の反発が予想されたからだ。

 そのころ、宮古島の船が台湾に漂着し、乗組員が先住民に殺される事件(=宮古島島民遭難事件)が起きた。日本政府は「日本国民たる琉球人が殺害された」として清国に抗議し、明治7(74)年に台湾に出兵した。「北京議定書」を締結し、「琉球は日本に属する」と明記させた。

 日本政府は、琉球藩に清国への朝貢を廃止するよう求めたが、琉球では清国へ救援を求める運動もあった。同11(78)年、日本政府は琉球併合を決断し、翌年、琉球藩の廃止と沖縄県の設置を宣言した。琉球処分だ。背景には、欧米列強の沖縄侵略、そして本土侵略を阻止する目的があった。

 幕末の1853年、浦賀に来航し、開国を求めた米国のペリー艦隊は、前後、琉球に来航している。那覇を拠点に日本に開国を迫る準備をした。ペリー来航の37年前から英国軍艦が来航し、米国商船は本土侵入の窓口にしようとした。フランス船は琉球にフランスの保護国になることを求めた。こうした動きの中で日本は開国し、明治維新に至った。

 明治政府は、沖縄・琉球を早期に名実ともに日本領土として確定する必要があった。だが、琉球藩は清国との関係から態度を明確にしなかった。また、琉球国時代の封建制度を温存したままだった。

 沖縄学の父、伊波普猷(いは・ふゆう=1876~1947)は、「琉球処分」を近代日本への編入であって侵略行為ではないとしている。文化的親和性、一体性を持つ本土と沖縄の「統一」、あるいは「合一」として起こったもので、沖縄県体制は植民地ではなく、「日本の一員としての沖縄」が出現したことを意味すると見た。

 また、琉球王を頂点とする支配を維持するために、琉球人民はいかに重い負担にあえいでいたか、悲惨な状態から解放し、新しい地平に立たせたのが琉球処分だったと述べている(「琉球処分は一種の奴隷解放也」)。(麗澤大学教授・八木秀次)

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