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葬祭行事で見せつけた「親分力」

★「親分力」の磨き方(1)

 田中角栄の人との接し方の基本は、まず相手への先入観、敵対意識というものを捨ててかかるということだった。「来る者は拒まず、去る者は追わず」である。ために、各界、各層、政治的対立者もまた、多く田中のもとに“相談”に訪れたのであった。田中自身の言葉がある。

 「私が最も大切にしているのは、何よりも人との接し方だ。戦術や戦略じゃない。相手が私に会って、話をしていて安心感があるとか、助かったと思ってくれたら、それでいいんだ。誠心誠意で接していると、自然と人と人を結びつける、新たなキッカケが生まれるものだ」

 世に言う「親分力」とは、どうやらこうした人との接し方の中で、育まれるものらしい。だから、人が集まったということのようである。

 この田中の「親分力」は、葬祭行事でしばしば発揮された。田中がとりわけ人の死に、心を込めて向かい合ったことはよく知られている。こんな「親分力」を見せつけたことがある。

 昭和56(1981)年2月28日、田中は多忙な日程をやりくりし、突如、ヘリコプターで長野県・伊那谷に舞い降りた。落選中の田中派前衆院議員、中島衛(まもる)の父親の葬儀出席と、中島の落胆と無聊(ぶりょう)をなぐさめるためであった。

 一方、空を飛んだ御大に対し、田中の号令一下、田中派の幹部、二階堂進、竹下登、金丸信、後藤田正晴ら7人衆が中央線茅野駅に結集した。ここから、田中の「親分力」が全開したのである。

 「7人衆はここから車で、中央高速に入って伊那谷に向かったのだが、実は、この高速道の開通は3日後だった。未通の高速を走るとはケシカラン話だが、日本道路公団は『視察のため』ということで許可してしまったということです。建設省は田中派の“王国”、ましてや田中の意向とあれば、公団にOKを言わすのは朝飯前だったようだ。御大以下、田中派の歴々を集めての葬儀に、中島前議員は感激に震えていました」(地元記者)

 その後、中島は復活を果たし、田中派の中堅として活躍の場を得た。

 葬儀への対応は、人の琴線に最も響くものである。部下の近親者の葬祭行事には、上司は一肌脱ぐぐらいの気持ちで接してやりたいものだ。親身な「親分力」に、以後の部下の見方は変わってくるはずである。(政治評論家・小林吉弥)

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