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「ワシが葬儀委員長だ」 石破茂氏を参らせた父親の“田中派葬”

★究極の人心収攬術(8)

 「権力、カネだけで人は動かない。田中先生は、すべてに常人が及ばない発想だった。あのとき、田中先生と出会っていなかったら、私は政治家にはならなかったと思っている。私の父親の葬儀で、私の人生は決まってしまった」

 石破茂。自民党幹事長、地方創生担当相などを歴任、いま「ポスト安倍」に虎視眈々(たんたん)だ。1986(昭和61)年の衆院選で初当選、田中派入りした。筆者は何度か石破に直接取材しているが、石破からこんな言葉を聞いたのは20年ほど前だった記憶がある。石破の話は、次のようなものだった。

 石破の父親、二朗は鳥取県知事15年、参院議員を7年務めた後、81年(同56年)9月に他界した。二朗は亡くなる1週間ほど前に、鳥取市内の病院に見舞いに来た田中に言った。

 「1つ、願いを聞いてほしい。いよいよのときは、あんたに葬儀委員長をやってもらいたい。最後の頼みだ」

 田中はうなずいたが、結局、鳥取県民葬となったことで、葬儀委員長を当時の鳥取県知事に頼み、自分は友人代表として弔辞を述べるにとどめたのだった。

 ここから先が、「角栄流」である。石破が後日、県民葬でのお礼を言いに田中邸を訪れた。県民葬に3500人の出席があったと石破から聞いた後、田中はそばにいた早坂茂三秘書にこう命じたという。

 「青山葬儀場を予約しろ。4000人を集めるんだ。石破二朗との葬儀委員長の約束は、県民葬という筋から果たせなかったが、“田中派葬”でやる。ワシが葬儀委員長だ」

 自民党葬の話も出たが、党葬になれば葬儀委員長は当時の総裁、鈴木善幸になってしまう。当時の田中派衆参議員100人超全員が発起人という、前代未聞の派閥葬が盛大に執り行われたのだった。

 田中は葬儀委員長として、泣きながら弔辞を読んだ。

 「石破君、君との約束をワシはいま、今日こうして果たしている…」

 そして後日、改めて「田中派葬」のお礼に参上した、大学を出て三井銀行(当時)のサラリーマンとして間がなかった石破に、次のように言ったのだった。

 「次の衆院選に出ろ。お前が親父さんの遺志を継がなくて、誰が継ぐんだ」

 常人の及ばぬ発想で、周りの人間の琴線を揺さぶり続けた田中角栄。“泣かせ所”は、波乱の人生で身についていた。人心収攬とは、私心なき度胸とうかがえる。 =敬称略

 (政治評論家・小林吉弥)

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