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パルチザンに参加、戦い続けた祖父

 ドブラヴィーチェル、親愛なる日本の皆様!

 今回は、大祖国戦争の時代を生きた人々の一人である私の祖父のお話の続編です。

 「おい!こっちだ」

 ドイツ行きの輸送列車から命からがら脱走して森の中をさまよっていた祖父が立ち止まって声のする方向を見ると、ライフルを持った男が木の陰に隠れていました。

 その男はパルチザンでした。

 パルチザンとは、ドイツに占領された国の一般市民が作ったゲリラ部隊の名称で、ソ連政府からの統制と指揮を受けた彼らの主な任務は、ドイツ軍への妨害工作でした。

 その男の手引きによって森の奥深くのパルチザン司令部に連れていかれた祖父は、しばらくそこで匿われ、15歳の誕生日を迎える頃にパルチザンとして抵抗運動に参加していくことになりました。

 その頃には、ベラルーシ国内の抵抗運動は全国的に広がっていき、パルチザンの数は急増していました。

 深い森や湿地帯が多いベラルーシの国土は、パルチザン側にとって戦闘や隠れる場所などで有利な条件が多く、次第にドイツ軍はパルチザンの妨害活動に手こずるようになっていきました。

 一方、敵に捕まれば間違いなく殺される事が分かっていた祖父たちパルチザンは、常に注意深く行動していました。

 そして、神出鬼没の彼らは森の奥から占領された地域に潜入し、ドイツ軍と協力する占領行政の当局者たちを暗殺し、敵の列車が通る線路や橋に爆弾を仕掛け、待ち伏せ攻撃で多くの敵車輌を破壊するなどの妨害活動で戦果を上げていきましたが、同時に多くの仲間も失っていったのです。

 ある日、偵察任務を終えた祖父が森の中の集合場所に戻ってくると、分遣隊の仲間全員が殺されていました。

 後に、ドイツ側に寝返った一人のパルチザンの密告であることがわかり、裏切者は祖父の仲間たちによって発見され、殺害されました。

 そのような幾多の抵抗運動を経て、2年以上ドイツの占領下にあった祖父の故郷ゴメリは、最終的にソビエト軍によって1943年11月に解放されましたが、それはドイツ軍によって既に街の80%が破壊された後のことでした。

 解放後の1944年、17歳の時に正式にソビエト海軍に入隊した祖父は、今度はバルト海で終戦までドイツ軍と戦いました。

 そして、ドイツの降伏後にラトビア共和国の港湾都市、リエパーヤに駐留することとなった祖父は、その地で将来の伴侶と出会うことになるのです。

 この続きは次回に…。

 ■ジュリア・ミント 1994年ロシア連邦バシコルトスタン共和国生まれ。エカテリンブルクの医科大を経て、現在は大学院で眼科学を専攻する傍ら、日本人コンポーザーTAMAKIと共にノーザンスタイル・ダンスミュージック・ユニット“Crystal Mint”を結成。シンガーとして、主にヨーロッパで活動中。特技は英語、腕立て伏せ。

Instagram : https://www.instagram.com/crystalmintmusic/

Website : https://crystalmint.info/

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