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女優・宮城まり子に果たした「約束」

★究極の人心収攬術(10)

 本連載も、今回がいよいよ最終回となる。

 女優の宮城まり子が、障害を持つ子供たちの養護施設「ねむの木学園」を、静岡県掛川市に設立したのは1968(昭和43)年である。ハンディキャップを抱える子供にも「教育を受ける権利」があるとして、当時の厚生省の認可を取り、12人の子供たちで学園をスタートさせたものだった。

 しかし、宮城は数年後、ある行き詰まりを感じた。

 当時、国の養護施設で教育を受ける予算は、小・中学校の年齢までの子供までとなっていたからである。中学を卒業する年齢になると、高校進学どころではなく、卒業後の身の置き所さえ定まらぬというケースも多々あったのだった。宮城は悩んだ末、首相官邸へ“直訴”の電話を入れた。電話口の秘書官に、こう言ったのだった。

 「総理にお目にかかり、直接お話しをさせていただきたいことがあるのですが…」

 時に、72(同47)年9月、田中角栄が首相に就任して2カ月ほどであった。

 2人に面識はなかったが、田中も、NHK紅白歌合戦の常連だった宮城の名前は知っている。超多忙の田中は何とか10分ほどの時間を取り、官邸で宮城と向かい合った。宮城は言った。

 「総理、養護施設にも素晴らしい才能、能力を持った子供がおりますが、そういう子供が高校へ進む予算がないのです。日本もこれだけ豊かになったのですから、どうか予算を付けていただけないでしょうか」

 田中が答えた。

 「それは知らなかった。総理なら知っておかなきゃいかんことだ。分かった。すぐ返事というのは無理だが、正月まで待ってほしい。必ず、返事をする」

 正月七草が明けたころ、時の二階堂進官房長官から、宮城に官邸に来てほしいと連絡があった。二階堂が言った。

 「遅くなりましたが、日本全国すべての養護施設の子供が、高校教育を受けられる予算が付きました」

 田中は自身が家庭の事情から、尋常高等小学校までしか行けず、子供の教育の大事さは身に染みていた。宮城の話を聞いた後、年末の予算編成の復活折衝にこの予算をねじ込み、宮城の熱心さに応えたということだった。宮城の感激ぶりは、言うまでもなかった。

 相談事を受けたら、応じられないものは断るが、できることは即刻の“決断と実行”が、常に「角栄流」ということだった。そこには、損得勘定は入っていない。部下の上司に対する信用度も、詰まるところ約束の守れる人物か否かが、分かれ目になるということである。 =敬称略(政治評論家・小林吉弥)

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