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戦時下、祖母の過酷な生活

 ドブラヴィーチェル、親愛なる日本の皆様!

 ドイツの降伏後まもなく、ラトビア共和国の港湾都市リエパーヤに駐留する事となった当時18歳のソビエト海軍の祖父は、その地で将来の伴侶となる祖母と出会う事になるのですが、彼女も、また同じく過酷な戦争時代を生きた人々の一人でした。

 私の祖母、ヴェラ・アレクサンドロワはウラル地方のチルリアンという小さな村で生まれました。

 深い森と高い山々が織りなすチルリアンは、現在のロシア連邦バシコルトスタン共和国の南東部に位置し、おとぎ話に出てくるような美しい自然に囲まれています。

 そのような大自然の中で祖母ら家族たちは、戦争が始まるまで幸せな生活を送っていました。

 しかし、ナチス・ドイツとの戦争が始まると状況は一変しました。

 すぐに老人以外の村の男たちは戦場に行き、後に残ったすべての子供と女性たちは、近隣の町にある冶金工場での労働に取り組まなければなりませんでした。

 その工場では、近隣の村から集められた数百人の子供や女性が、フル稼働で武器を作るために必要な金属を作っていました。

 そして、その当時12歳だった祖母も毎朝6時から12時間休み時間もなく、一日中立ったまま機械を操作して懸命に働きました。

 機械化された300万のドイツの大軍が、突如ソ連領内に押し寄せてきた1941年のこの時期、防戦一方のソビエト軍は大きな損害を出して退却を重ね、遂にドイツ軍は首都モスクワ近郊まで近づいてきていました。

 そのような状況下で、首都防衛の為に突貫作業で武器弾薬を作り、すぐに戦地へ送っていた軍需工場には厳しい規則が課され、少しでも仕事に遅刻した人は、ただちに投獄されました。

 従って、目覚まし時計もなく毎朝5時に起きなければならなかった祖母は、寝過ごさないように、毎晩木製のテーブルに座って頭を突っ伏して休んでいました。

 さらに、戦場の兵士への配給を優先していたために、工場で働く人々の食糧の配給は乏しく、祖母たちはいつも空腹でした。その上、冬の工場はとても寒く、足が凍傷になってしまう人もいました。

 このような過酷な労働作業はソビエト軍が反転攻勢に回った1944年まで続き、祖母は最終的に1945年5月にドイツが降伏する直前まで働き続けました。

 そして、やっと長年の戦争が終わった時に16歳になっていた祖母は、新たな夢を叶えるためにエカテリンブルグに行くことを決めました。

 この続きは次回に…。

 ■ジュリア・ミント 1994年ロシア連邦バシコルトスタン共和国生まれ。エカテリンブルクの医科大を経て、現在は大学院で眼科学を専攻する傍ら、日本人コンポーザーTAMAKIと共にノーザンスタイル・ダンスミュージック・ユニット“Crystal Mint”を結成。シンガーとして、主にヨーロッパで活動中。特技は英語、腕立て伏せ。

Instagram : https://www.instagram.com/crystalmintmusic/

Website : https://crystalmint.info/

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