【経済快説】五輪の辞任・解任劇の意味を考える  - zakzak:夕刊フジ公式サイト

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【経済快説】五輪の辞任・解任劇の意味を考える 

 多難なオリンピックが始まった。そもそもコロナ禍での開催に反対の国民が半数を超える中での強行だが、実にトラブルが多い。競技場やエンブレムのデザインの盗用問題に始まり、その後も、女性蔑視発言を問題視された森喜朗大会組織委員長の辞任、女性タレントの容姿を侮辱したと批判された佐々木宏氏の開会式演出総合統括辞任、さらに、開会式直前になって、過去のいじめを問題視された小山田圭吾氏の楽曲が取り下げられ、過去にホロコーストを揶揄(やゆ)したとして小林賢太郎氏が開会式のショーディレクターを解任された。

 特に、最近の小山田氏、小林氏の2件は、問題の事実がかなり古いもので、少なくとも現在の当人たちがそれを正しいと主張していない問題による点が独特だ。本人が現在反省を示しても過去の問題が許されずに、当人を社会的な活動から排除しようとするがごとき力が働いた。その概念に厳密に当てはまるかどうかは議論の余地があるが、近年米国で話題の「キャンセル・カルチャー」という言葉を想起させる。

 両人の辞任・解任の是非はここでは論じない。考えてみたいのは、本人が現在は肯定しない過去の問題でも、社会が当人を排除することがもたらす、人の行動への効果だ。

 今回の「いじめ」や「ホロコーストの揶揄」が、現在の社会的価値観にあって非難の対象であることに異議を唱える人は、当事者2人を含めて少なかろう。問題は、過去の行動に対して現在ペナルティーを課すことと、それを司法的な手続きによってではなく「世論の圧力」で行うことの2点だ。

 過去であっても問題のある行動を起こした人物が排除されることは、当該問題行為に対する追加的な抑止効果を持つ。

 一方、過去の行為を反省しても、社会的に「キャンセル(排除)」されかねない状況は、過去の不祥事を隠蔽しようとする動機と、「反省しても無駄かもしれない」と反省に対して消極的になりかねない誘因という2つのネガティブな効果を持つ。

 また、法的な手続きの外で、社会的圧力で個人や企業を葬ろうとすることは、基本的人権の観点から行き過ぎになる場合がありそうだ。個人の排除や会社の製品に対する不買運動は、社会的に意見を主張する方法として強力だが、「やってもいい範囲」にはおのずと限界がある。もちろん、排除を主張する人も自らが反論を受け付け、行動が不適切だった場合には責任を取る用意を持つべきだろう。

 おそらくは「真剣に謝った過ちは許される」と世間が相互に了解するような倫理の下で物事を処するのが、不適切行為への厳しさと、本人が反省するモチベーションとのバランスを取る上で適切なのだろうと思われる。

 目下、トラブルと不寛容の両方が悪目立ちする残念な五輪である。(経済評論家・山崎元)

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