巨人・坂本が及ばなかった史上最年少2000安打 「榎本喜八」伝説 期待されないコネ入団で新人王、24時間野球漬け 須藤豊氏が証言 (1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト

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巨人・坂本が及ばなかった史上最年少2000安打 「榎本喜八」伝説 期待されないコネ入団で新人王、24時間野球漬け 須藤豊氏が証言 (1/2ページ)

 巨人・坂本勇人内野手(31)が29日のDeNA戦(東京ドーム)で4打数無安打。通算1909安打で31歳と228日目を終え、榎本喜八が1968年7月21日に樹立した史上最年少2000安打記録の更新はならなかった。新型コロナウイルスの影響で開幕が3カ月遅れた時点で、坂本の52年ぶりとなる新記録への挑戦は絶望的となり、榎本が再脚光を浴びるせっかくの機会も失われた感がある。数々の逸話を遺した伝説の安打製造機。その知られざる素顔を、夏の甲子園高校野球で出会い、プロでも同じ釜の飯を食った夕刊フジ評論家の須藤豊氏(83)が証言する。(構成・笹森倫)

 須藤氏が高知商高2年時、1954年夏の甲子園準々決勝で対戦した早実高の「1番・一塁」が3年の榎本喜八だった。

 「都会の早稲田のユニホームを見て、高知から出てきたわれわれの反骨精神は燃え上がった。都会的なセンスのある選手がたくさんいるなかで、榎本さんは異色の存在だった。ショートを守っていて無骨なスイングに速さは感じたが、さほど強烈な印象はなかった」

 高知商はこの試合でサヨナラ勝ち。同年秋に北海道国体の準決勝で再戦した際も勝利している。

 榎本は翌55年、毎日オリオンズ(現ロッテ)入り。当時レギュラーだった早実の先輩、荒川博のコネ入団でそれほど期待は大きくなかったが、1年目から146安打を放ち新人王に輝いた。気をよくした球団側は、シーズン中に給料を3倍にしたという。

 須藤氏も「あの榎本さんが新人王?」と驚いたが、56年に同じ毎日に入り、大分・別府の春季キャンプ初日に疑問は解けた。「榎本さんは後に荒川さんの指導でダウンスイングになったが、当時はまだアッパー気味で、打球をポンポンと場外に飛ばしていた。1年でどうしてこんなに変わったのかとびっくりした」。

 別当薫監督に「荒川にスイングを見てもらえ」と指示され、初日夜に宿舎で“荒川道場”へ。その場で門下生の榎本にもあいさつすると、「おまえ、高知商業の須藤か」と再会を喜んでくれた。

 榎本は自分から人に話しかけるタイプではなかったが、互いに1軍には同年代が少ない心細さもあり、須藤氏は積極的に言葉を交わしながら親しくなっていた。

 選手寮は本拠球場・後楽園にほど近い東京・本郷にあった。寝食をともにしながら、須藤氏は榎本の24時間野球漬けの生活を目の当たりにする。

 「榎本さんは本当にバットが好きだった。パジャマ姿で部屋から出てくると、バットを持ったまま顔を洗いに行く。朝食もそばにバットを置いて食べ、食後は庭の木に向かって納得がいくまでスイング。デーゲームだろうとナイターだろうと毎日、欠かさなかった、試合後もまっすぐ帰ってまたスイング。私も最初は練習につき合ったが、2年目からは夜の街に誘われてしまって…」

 打撃の求道者は遠征中も宿舎で食事を済ませ、夜の街に出て酒を飲むこともなかった。決して下戸だったわけではなく、須藤氏が部屋を訪ねて酒を勧めると、どれだけ杯を空けても顔色ひとつ変えずにいたという。

 「私が夜の街の話題や世間話をすると、自分には縁がない世界なものだから、本当に喜んで聞いてくれた。女性関係の話なんかしたら、顔を真っ赤にしてね。純情を画に描いたような人だった」

 榎本は退寮後に東京・練馬の実家に戻っても、広大な畑の一角に打撃ケージをつくり、一心不乱にバットを振り続けた。身長は172センチと小柄だが手足は大きく、「腹筋は割れて皮下脂肪は1センチもつまめなかった」。

 ストイックな猛練習とともに、「安打製造機」の異名を取った打撃を支えたのが、並外れた選球眼のよさだ。「荒川さんの合気道を取り入れた指導を受けた弟子でも、王貞治は一本足の『動から動』でタイミングを取る打撃。榎本さんは対照的に『静から動』。体重移動をせず、心の中でタイミングを取っていた」。ノーステップ打法で、目線もまったく上下にぶれない。球審は口々に「見逃しストライクの後、榎本が何も言わずに振り返ってジロッと見てくるのが本当に嫌だ」と訴え、恐れたという。ベンチに戻った榎本に須藤氏が声をかけると、平然と「1センチ外れている」と返してきたこともあった。

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