【実況・小野塚康之 時代を超える名調子】初実況は高校生に支えられた(上) 初任地・鳥取で深みにハマり悪戦苦闘 ようやく掴んだ「最終テスト」 (1/2ページ) - zakzak:夕刊フジ公式サイト

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【実況・小野塚康之 時代を超える名調子】初実況は高校生に支えられた(上) 初任地・鳥取で深みにハマり悪戦苦闘 ようやく掴んだ「最終テスト」 (1/2ページ)

 ★高校野球に学ぶ(1)

 今年は新型コロナウイルス感染症の影響で過去にないスポーツ界の苦しみを目の当たりにしている。大会を奪われ不自由な環境の中で日々を送る選手や場を作ろうと奔走する周囲の人々、不安の中で見守る家族。われわれもまた、皆さんの活躍を十分に伝えられないもどかしさを感じている。

 私は今年実況生活40年を迎えた。良い時代をここまで過ごさせてもらった。その間多くのことを野球、特に“甲子園”を通じて経験し学んだ。野球の楽しさその力に感謝しながら振り返って今だからこそ伝えたい。

 1980(昭和55)年NHKに入り初めに赴任したのは鳥取だった。日本一の鳥取砂丘に因幡の白ウサギ伝説が残る歴史ある街で、山陰海岸国立公園に指定されている海岸線は複雑に入り組み、その先には美しい日本海が広がっていた。

 特産は20世紀ナシにスイカ、ナガイモ…ラッキョウの花が紫色のかれんな花をつけ風にそよぐ姿は愛らしく感じた。冬は厳しく在任中には56豪雪(ごーろくごうせつ・昭和56年)に見舞われた。雪景色を「犬は喜び庭駆けまわり」的に感じながらも驚きの世界だった。冬季の味覚はめったに口に入らなかったが、松葉ガニ。

 県民60万人、県庁所在地鳥取市の人口は12万数千人だった。交通渋滞もほとんどなく、信号機の間隔も長い。アーケードの商店街は発達していたが夜7時頃にはシャッターが下りる店が多い。早寝早起き、規則正しく、きまじめな県民性が伝わってくる。22年間暮らしてきたわが故郷・東京とは全く別の世界観が新鮮であり、正直カルチャーショックも受けた。

 この鳥取でアナウンサーとしてスタートを切ったのだ。社会人? アナウンサー? 一人暮らし? 初めて尽くし。昼間は年の近い優秀な先輩や指南役の上司に「いい声」で怒られ、夜には飲み屋で人付き合いの勉強や人脈を広げる活動をしていたが、なんだか自信はなくなるし自分の居場所がない不安な日々が続いていた。

 4月5月と東京にある研修所で一応の訓練は受けたもののへたくそすぎた。先輩たちは優秀ですでにプロの発声を身に付けていたのに1年違いで大違い。滑舌が悪く、放送をすれば『小野塚のニュースはなまりがあるように聞こえるが東北の出身か?』などと問い合わせが来たほどだ(東北の人がお国言葉でしゃべっているという意味で)。

 本当に「困った! 困った! 困った!」いきなり深い悩みに入り込んでどうしよう! と思ったとき、頭に浮かんだのが「そうだ! “困ったら野球だ!”とりあえず野球見に行こう!」ここから全てがハッピーに転じていった。

 6月に赴任してあっという間に時がたち、梅雨が明けて光り輝く青い空に入道雲が湧き上がる。沖縄から戦いの火ぶたは切って落とされ南北・北海道や鹿児島と続きしばらくして全国津々浦々から甲子園を目指す戦いがスタートした。鳥取はなかなか始まらない。なんだか違和感があったがそれもそのはず20校しか参加校がないのだ。

 トーナメント表で確認すると「1回勝てばベスト8、えー! 4勝で甲子園なのぉ」と全国最小の数字には驚いてしまうが、“もう一つのびっくり”は、NHKはラジオでは開会式から全試合、テレビは準々決勝から決勝まで生中継するのだった。これは昭和40年代に東京で高校野球を経験していた私には考えられないような選手に手厚い話だ。自分に置き換えたらバッターボックスに入ったら名前を放送で呼んでもらえるんだ。アップで映るんだ!すげえ!」。そんなことを考えていたら何だかワクワクドキドキしてきて、「ヨシ! 実況できるように頑張ろう!」。

 まずは取材だ。はじめにお邪魔したのは鳥取西高校だと思う。15年の第1回大会から出場している伝統校だ。町のシンボルともいえる松の緑豊かな小高い久松山の麓に学校があり、山の反対側に野球部の練習グラウンドがあった。片側1車線の曲がりくねった道路を登り、トンネルをくぐって下っていくと選手たちの元気な声とともにきびきびした姿が目に飛び込んできた。部員も結構たくさんいた。

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