【勝負師たちの系譜】「若手との研究会」で50歳名人になった米長邦雄氏 祝賀会には将棋界最高の1500人

米長永世棋聖の名人就位式には、多くの著名人が駆けつけた=1993年7月 

★米長邦雄(3)

 ボクシングで、何度倒しても不死鳥のように立ち上がってくる相手に、恐怖を覚えたという話を聞いたことがある。

 米長邦雄永世棋聖の名人位に対する執念は、それに近いものがあったのではないだろうか。

 名人位に6度挑戦して敗れれば、もう決着はついたと思うのが普通だが、米長は7度目の挑戦で見事、中原誠名人(当時)から名人位を奪取した。それも、今まででは考えられない、4-0での快勝であった。

 米長が名人位に就けたのは、若手との研究会のお陰だった。それも若手に将棋を教えるのでなく、若手から新しい技術、考え方を学んだ成果だと聞いたことがある。

 米長研究会の塾頭は、森下卓九段で、佐藤康光九段をはじめ、錚々たるメンバーが参加した。若い頃の羽生善治竜王・棋聖らと切磋琢磨した、島(朗)研と同じ発想だ。

 そしてこれが最後のチャンスだったことは、本人が一番よく知っていた。「来年になると、あの男がやって来る」と言っていたことが現実となり、羽生挑戦者に名人を明け渡したのだった。

 結局、1期だけの名人だったが、中原誠16世名人、谷川浩司九段、羽生という、永世名人獲得者に挟まれたことで、闘志が萎えることなく、逆に誰もがなし得ない50歳時に名人、という記録を作ったのである。この時の祝賀会に集まった人は、将棋界最高の1500人とも言われている。

 米長は将棋の実力もさることながら、将棋界では断トツの交友関係を持ち、あらゆるスポンサーを将棋界にもたらした。

 米長の死後、私は今ある棋戦やイベントの協賛社を、誰が持ってきたかを調べてみて、改めて米長の働きに驚いたものだった。後輩は先輩のお陰で、今の将棋界があることを忘れてはならない、と思う。

 米長が名人になった頃は、同時に交友関係も絶頂であり「今理事なら、もっとスポンサーを増やせるのに」という思いだったようだ。

 しかし名人と運営者が両立できるわけはなく、このジレンマが米長を会長への道に進ませることになる。

 ■青野照市(あおの・てるいち) 1953年1月31日、静岡県焼津市生まれ。68年に4級で故廣津久雄九段門下に入る。74年に四段に昇段し、プロ棋士となる。94年に九段。A級通算11期。これまでに勝率第一位賞や連勝賞、升田幸三賞を獲得。将棋の国際普及にも努め、2011年に外務大臣表彰を受けた。13年から17年2月まで、日本将棋連盟専務理事を務めた。