【勝負師たちの系譜】米長邦雄永世棋聖、会長として棋界に新風 一番の功績は「子供のファン増やしたこと」

コンピューターと対局後に記者会見する米長永世棋聖。晩年まで注目を集め続けた=2012年1月

★米長邦雄(4)

 米長邦雄永世棋聖は、肩書が九段時代「自分は松の九段」と言っていた。

 タイトル獲得19期だから当然であり、1985年に永世棋聖資格者、93年に名人を獲得したことで、棋士として為すことは一応終わったと思ったのだろう。

 97年度に4勝5敗でA級から陥落した時は、森内俊之九段、羽生善治竜王・棋聖と破り、まだ復帰は可能と思われたにも関わらず、即フリークラスに転出。2003年に満を持して理事に当選した年の暮れ、引退を表明した。60歳の時である。

 理事として最初の年は、中原誠会長の下で専務理事となり、2年後の選挙で会長に就任した。会長になった瞬間、目に涙が浮かんでいたのを覚えている。

 会長になってからは、大和証券杯のネット棋戦の開始。アマから棋士になれる編入試験制度を作り、奨励会を年齢制限で退会した瀬川晶司さんを四段で棋士に入れるなど、斬新なアイデアを将棋界に取り入れた。

 また11年には将棋連盟を公益法人にするため反対派を説得し、剛腕をふるって法人資格を獲得した。

 最後の仕事はドワンゴ社と協力し、プロとコンピューターとの対戦の企画だった。自らも対局者となって、世間を大いに注目させたものである。

 プロ棋士5人とコンピューター5台の対決を目前にして、会長職のままがんで亡くなったのは、12年の暮れのこと。さぞかし残念であったろう。

 米長は生前、棋士によく「俺の一番の功績は何だと思うかね」と聞いていた。

 皆が新企画のことを言うと、「違うね、子供のファンを増やしたことだよ」と自慢している時の顔は、少年のようだった。

 米長は語録も多く、前に出た「相手の大事な将棋ほど、真剣に指せ」は有名だが、私は「常に貸方であれ」というのが印象に残っている。いつも借りを作っているようではダメという意味で、私の生きる基本となっている。

 他には「離婚した方が良いケース」というのもあったが、これは放送禁止用語が入っていて書けない。

 ともかく面白い棋士であった。

 ■青野照市(あおの・てるいち) 1953年1月31日、静岡県焼津市生まれ。68年に4級で故廣津久雄九段門下に入る。74年に四段に昇段し、プロ棋士となる。94年に九段。A級通算11期。これまでに勝率第一位賞や連勝賞、升田幸三賞を獲得。将棋の国際普及にも努め、2011年に外務大臣表彰を受けた。13年から17年2月まで、日本将棋連盟専務理事を務めた。