【ぴいぷる】“電波戦”で挑む拉致解決 対北ラジオ『しおかぜ』放送制作者・村尾建兒氏 北の妨害電波に「やる気が出てきた」

村尾建兒氏

 「こちらはしおかぜです。東京から北朝鮮におられる拉致被害者の皆さん、さまざまな事情で北朝鮮に渡って戻れなくなった皆さんへ、放送を通じて呼びかけを行っています」

 唱歌「ふるさと」の調べに合わせ、メッセージが流される。情報統制の厳しい北朝鮮で監視の目が緩むとされる深夜と未明、拉致被害者らに向けて毎日放送されている短波ラジオ放送「しおかぜ」。その制作を担当している。

 運営する「特定失踪者問題調査会」に加わったのは2004年。それまでは広告代理店に勤めるサラリーマンだった。拉致問題は知ってはいたが、「北朝鮮って拉致をやってたんだというレベルだった」と振り返る。

 拉致被害者家族が立候補した同年夏の参院選を手伝ったことが、拉致問題に関わるきっかけだった。選挙戦の反応は良かったものの結果は落選。拉致問題への関心が、それほど高くない現状を目の当たりにさせられた。

 「北朝鮮の専門家たちだけでやっていていいのか」。世論の支持を広げるため、従来とは異なるアプローチで啓発を行う重要性を感じた。同年に会社をやめ、調査会に入った。

 しおかぜの放送が始まったのは翌年の10月末。韓国の北朝鮮向けラジオ放送の存在を知った荒木和博代表に、担当するよう告げられたのだ。

 広告代理店でプロモーションビデオやCMの制作を手がけ、番組づくりのノウハウは持っていた。ただ、準備期間は約1カ月しかない。時間が足りなかった。「最後の2週間ぐらいはすごかった。タクシーで家に帰って風呂に入って、それでまた事務所に来て作業をしていた」

 機材も不足していた。収録スタジオもなく、最初は事務所の一角で録音をしていた。日中だと来訪者が来るたび中断を余儀なくされ、しばらくの間、収録は夜に行った。

 試行錯誤で放送を続けていた06年4月末、しおかぜの放送を耳障りな音が邪魔し始めた。北朝鮮による妨害電波だった。拉致の可能性を排除できない特定失踪者の氏名読み上げでスタートした番組は春から、北朝鮮の独裁体制を批判するようなニュースを伝えていた。

 受信には迷惑このうえない妨害電波だが、その存在は、北朝鮮がしおかぜを問題視していることを意味していた。

 「しばらく妨害電波がなかったので不安を感じていたけど、これだけ妨害してくるのは、『嫌なんだ』と分かって俄然(がぜん)やる気が出てきた」

 対策のため、複数の周波数を確保。その後も番組内容の充実、放送時間の拡大に取り組み、16年からは中波での放送も始めた。北朝鮮では中波受信機が多いとの情報があったからだ。

 ネックは資金面だった。1日2時間半の短波に月約110万円、1日1時間の中波に月約200万円の費用がかかる。政府公報の委託放送を行っていくらかをカバーできても、賄いきれなかった。中波放送は休止し、再開に至っていない。

 自身も不安定な立場にいる。サラリーマン時代に比べ、月収はほぼ半減した。「2~3年やれば解決するかもしれない」と加わってから14年。自分にしかできないことをやっているという自負心、さらに被害者家族らの真情に触れて「ここまで関わったら、もうやめられない」という思いはあるが、自身のこの先の人生設計は正直立っていない。

 そんな状況でも闘えるのは、父の昭さんから流れるDNAという。昭さんは東映のヤクザ映画やテレビの「必殺」シリーズを手がけた脚本家だった。

 「おやじは映画バカで損得を考えない。気に入らないと『こんなものできるか』と仕事を断り、自分のやりたいことを追求していた。一本気というか真っすぐすぎる性質を、僕は受け継いだのだと思う」

 拉致被害者の救出にのめり込む自身を「客観的に見たらアホだよね」と評する姿には、すがすがしささえ感じられる。

 この先はどこに向かうのか。そう尋ねると、こう答えた。

 「僕は運動家でも、北朝鮮の専門家でもないので、その人たちがやらないことをやって救出に結びつけていかないといけない。とにかく拉致問題の行く末を見届けたい。その先、仕事はないかもしれない。でも、自分がやったという生きた証しは残せる。そっちのほうが重要だと思っている」(ペン・森本昌彦 カメラ・酒巻俊介)

 ■村尾建兒(むらお・たつる) 1964年12月25日、東京都生まれ。53歳。専門学校で音響を学び、卒業後はしばらく音楽活動を続ける。その後、広告制作会社、広告代理店で勤務し、2004年に特定失踪者問題調査会に入り、現在は副代表を務める。しおかぜの放送のほか、音楽を通じて拉致被害者の早期救出への思いを共有する「しおかぜコンサート」や、若年層に対する啓発活動にも取り組んでいる。