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【「西郷どん」交友録】月照と入水自殺を共にした西郷の“真意” 開国派の直弼が斬殺する計画立て… (1/2ページ)

★(2)月照

 僧・月照と、西郷隆盛は2人、手を取り合って、薩摩の錦江湾に飛び込んだ。安政5(1858)年の師走。6日放送のNHK大河ドラマ「西郷どん」のラストシーンだ。月照は死に、西郷は奇跡的に一命を取りとめた。月照、享年45。

 大阪生まれの彼は14歳の時、叔父を頼って京都清水寺の門をたたく。そして、22歳の時、成就院の住職に就く。

 「日本が開国なんぞをすると、日本は外国人だらけになって仏教は廃れる」と思いこんだ月照は、反開国の尊皇攘夷思想に傾倒していく。やがて、住職の座を弟の信海に譲り、自分は攘夷運動に専心するようになる。

 さて、ペリー来航の2年前に薩摩藩主になった島津斉彬の歴史上の立ち位置は「公武合体派」だった。病弱な第13代将軍、家定の後任には、越前藩主の松平春嶽や、土佐藩主の山内容堂、宇和島藩主の伊達宗城らと一緒に、明敏な一橋慶喜を推すグループにいた。

 一方、「開国派」のリーダー、彦根藩主の井伊直弼は、紀州藩の幼い藩主、慶福(のちの家茂)を推していた。

 そんなある日、家定の3人目の御台所(=将軍の正室、前の2人はともに公家の出で、病死した)に、元気のいい外様の島津家からという要請があった。斉彬は「14代慶喜実現」のため、これを快諾した。当時、斉彬には娘がいなかったため、分家の娘(篤姫)を自分の養女にし、やがては公家・近衛家の養女にして「環境」を整えた。

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