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【明治維新に学ぶ】数々のドラマを生んだ戊辰戦争 私利私欲ではなく公のために戦った志士たち (1/2ページ)

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 幕府が倒れ、新政府誕生を面白く思わない者もいた。

 大政奉還(1867=慶応3=年)によって大坂城(現・大阪城)に移った徳川慶喜を中心とする旧幕府軍に奥羽越列藩同盟ら親幕府諸藩と、薩摩・長州・土佐藩を中心とする新政府軍が激突したのだ。

 この戦争は、「鳥羽・伏見の戦い」(68=慶応4=年)を皮切りに、東日本や東北各地で激しい戦闘が繰り広げられ、箱館(函館)の「五稜郭の戦い」(69=明治2=年)での旧幕府軍の降伏をもって終焉(しゅうえん)した。

 まさに、新生日本の生みの苦しみともいえる戊辰戦争では、数々のドラマが生まれた。

 甲州勝沼の戦いでは、土佐の板垣退助率いる新政府軍と、新選組局長の近藤勇と副長の土方歳三らが戦火を交えた。のちに近藤は新政府軍に捕らえられて斬首されたが、最期まで幕府への忠誠心を貫いたことは高く評価されるべきだろう。

 その後、幕臣・勝海舟と、新政府軍の西郷隆盛が68(慶応4)年3月、東京・田町の薩摩藩江戸藩邸で会談し、「江戸城無血開城」が決まった。この奇跡の合意の立役者こそ、幕臣・山岡鉄舟であった。

 山岡は、静岡まで進撃してきた新政府軍のもとへ、勝の手紙を携えて単身乗り込み、西郷と会談した。このときの山岡の堂々たる姿勢と、主君・慶喜への忠義が、西郷を感動させ、無血開城を実現させたのだった。

 江戸城が無血開城できなければ、江戸の町を舞台に旧幕府軍と新政府軍が激突し、数多の民が犠牲となっていた。混乱に乗じて外国勢力の介入を招いたかもしれない。

 山岡の命がけの行動と覚悟、そして勝と西郷の国の将来を憂う気持ちが人々の命と国を守ったのだった。

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