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戦後日韓裏面歴史 最強在日ヤクザと司馬遼太郎との邂逅 (1/6ページ)

 最強の「在日ヤクザ」と恐れられた柳川次郎(梁元錫)は1969年に組を解散し、堅気となった。そして、実にこの男らしい方法で日韓交流に邁進する。韓国のKCIA(中央情報部)やポアンサ(韓国軍の保安司令部)といった情報機関をカウンターパートとして、柳川は国家を動かすほどの力を得ていった。ジャーナリストの竹中明洋氏が、柳川の足跡を辿った。

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 男は、柳川と大阪のミナミで合流すると、紙を渡されたという。

 「向こうからの通達や。分析してみい」

 韓国情報機関のペーパーだった。

 「私の任務の多くは、様々なルートで機関に上がってくるタレコミを調べよ、というものでした。韓国への祖国訪問団は、日本から電化製品を持ち込んでも人道上の措置として非課税になった。それを悪用して商売する者がいる。そんな情報を裏取りして本国に報告し、民団から締め出すのです」

 柳川次郎の元秘書で、韓国軍の情報機関であるポアンサのエージェントだったMは、かつての活動をそう振り返る。Mは民団幹部でもあった在日韓国人だ。大阪・梅田の喫茶店で初めて会って以来、幾度も取材を重ねた。

 「会長に守ってもろうてたんです」

 Mは柳川との関係をそう説明する。きっかけは、1977年頃のことだった。ある日の晩、Mは梅田で宝石店のショーウィンドウをのぞき込んでいた。いきなり男たちに車に押し込められた。必死に抵抗し、阪神高速に入る手前でドアをこじ開けて飛び出した。男たちが何者かは分からずじまい。が、思い当たる節があった。総連のふくろう部隊に違いない。

 「ふくろう部隊」とは総連の武闘派組織の通称で、尾行や盗聴など、秘密工作に通じていたとされる。冷戦真っ盛りの1970年代、朝鮮半島の南北で対立する二つの国家は、日本を舞台に熾烈な工作戦を展開していた。

 北朝鮮は日本を対南工作の拠点と捉え、次々と工作員を送り込む一方で、韓国の情報機関もカウンター工作を展開した。とりわけ在日が多く住む大阪は、その主戦場といえた。在日社会は韓国系の民団(在日本大韓民国民団)と北朝鮮系の総連(在日本朝鮮人総聯合会)に分かれ、切り崩し工作が繰り広げられていた。

 Mは朝鮮大学校出身で、朝鮮学校にも長く勤務したが、総連内部の権力闘争の煽りを受け退職した。これに目をつけたKCIA出身の韓国の領事から「韓国に行ってありのままを見てこないか」と熱心に口説かれた。韓国各地を自らの目で確かめることで、北朝鮮のキャンペーン(「資本主義に搾取された貧しい南朝鮮」)が偽りであることを悟った。

NEWSポストセブン

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