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【部下がついてくる!「角栄流」上司の心得】橋本龍太郎を泣かせた1通の手紙 (1/2ページ)

★究極の人心収攬術(5)

 田中角栄の人を見る目、すなわち炯眼(けいがん)ぶりは、よく知られている。佐藤派時代から田中派を通じて、若手で特に将来性を買っていたのは、小沢一郎と橋本龍太郎の2人であった。小沢には事態をドカンと一刀両断する「ナタ」の魅力を評価していた。橋本には若手では稀(まれ)な鋭い政策理解力を持つことから「カミソリ」の魅力を期待していた。

 その橋本は初当選後、佐藤派入りして保利茂(=官房長官などを歴任)に指導を受けていたが、1969年12月の3回目の総選挙を機とし、田中に心酔、傾斜を強めていったのだった。それには、次のような秘話がある。

 橋本は初陣で、中選挙区時の《岡山2区》で堂々の2位当選を果たしたが、2回目の選挙では大きく票を減らし、定数5の4位当選と後退した。2回目の当選後には“デキる男”として、与野党対決の「健康保険法案」を抱える社会労働委員会と文教委員会に所属、理事を務めた。党政調でも、文教部会の副部長として、やはり対決法案となる「大学立法」の成案づくりに追われていた。

 選挙風が吹いても、忙しくて選挙区に帰れない。地元後援会からは「3回目の今回は厳しい情勢」が伝えられ、焦った。橋本は時の幹事長だった田中に、選挙区入りの応援を直訴した。しかし、田中は冷たかった。

 「君、分かるだろう。幹事長は全国を相手にしている。君の所に行っている余裕はない」

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