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「表現の自由」を企業がどこまで守るか 8chan、愛知芸術祭に見るリスクと責任 (1/4ページ)

 今、日本で「表現の自由」を巡る議論が盛り上がっている。

 事の発端は、愛知県で開かれている国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画「表現の不自由展・その後」という展示が、開催3日目に中止に追い込まれたことだった。その展示では、「『慰安婦』問題、天皇と戦争、植民地支配、憲法9条、政権批判など、近年公共の文化施設で『タブー』とされがちなテーマの作品」(同芸術祭オフィシャルサイトより)が設置され、韓国の彫刻家夫妻による慰安婦像を表現した「平和の少女像」や、昭和天皇などの肖像群が燃える作品なども含まれていた。

 そもそも、これらの作品は「組織的検閲や忖度(そんたく)によって表現の機会を奪われてしまった作品」(同)であり、日本各地で展示することができなかったもの。それをあえて公共のイベントで展示しようというのだから、大騒動になるのは目に見えていた。案の定、名古屋市長や愛知県知事が表に出てきて中止となったわけだが、このニュースはメディアでも活発に議論され、「表現の自由」とは何なのかを考えるいい機会になったことは間違いない。

 猛暑の日本でそんな熱い議論が交わされている中、実は米国でも「表現の自由」を巡って騒動が起きている。民間のIT系企業、NTテクノロジー社(公式サイト)が運営するインターネットのプラットフォーム「8chan」にからんだ議論が勃発しており、このサイトが先日、一時運営停止に追い込まれた。そこで、このケースを見ながら、いま一度、企業や自治体が直面する「表現の自由」の問題について考えてみたい。

 バランス感覚を失った“芸術監督”

 本題に行く前に、まず、同じジャーナリストという肩書で仕事をしている者として、芸術監督を担当したジャーナリスト、津田大介氏の今回の「活動」について少し触れたい。

 「表現の自由」は民主主義の根幹をなすものであり、国民に与えられた基本的人権である。日本では誰でも、ヘイトスピーチや脅迫などを除けば、基本的に表現する権利を持つ。強権的・独裁的な国家とは違い、安易に制限されるものであってはならない。表現の自由が制限されることも、検閲も許されない。

 その一方で、津田氏はジャーナリストという肩書の人が求められる役割を果たす必要があったのではないか。それは、物事をマス(大衆)に伝える際の、バランス感覚だ。どちらか一方の言い分を一方的に、大衆へ向けて扇動的に伝えるのはジャーナリズムではない。例えば、慰安婦を表現した少女像の隣に、慰安婦に関してはさまざまな議論や言い分があるとする注意書き、またはそれを表現する「芸術作品」を設置するのも一つの手だったかもしれない。

 筆者は日本や米国、英国などのメディアで働いてきたが、こうしたバランス感覚というのは、ジャーナリストとして働き出したら最初に学ぶことである。津田氏は「ジャーナリストとしての自分のエゴだったのではないかとも感じています」と今回の騒動について述べているが、実際は、ジャーナリストという仕事を逸脱したことが原因だったといえないだろうか。

 津田氏は少し前まで、「メディア・アクティビスト」と名乗っていた。あえて日本語に訳すなら、「社会的・政治的メッセージを伝えるために、メディアを活用する活動家」という意味になる。これならまだ理解できた。

 いずれにしても、テロ予告や脅迫は絶対に許されるものではなく、そんな言動をした者については警察当局がきっちりと捜査してほしい。

ITmedia ビジネスオンライン

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