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【続・吉田茂という反省】軍人以上に「帝国主義者」だった吉田茂 奉天時代に軍事力使った積極策を提唱、排日運動を引き起こすきっかけに (1/2ページ)

 夕刊フジで今年6月、集中連載「吉田茂という反省」を担当したところ、好評だったので続編をお届けすることになった。評論家で近現代史研究家の阿羅健一氏との対談本『吉田茂という反省』(自由社)も評判なので、ぜひ、ご一読いただきたい。

 「軍人嫌い」ということになっている吉田茂が、実は軍人以上に「帝国主義政策の推進者」だったのだというと、恐らくほとんどの人が意外に思うだろう。しかし、実際にはそうだったのだ。

 吉田は1906(明治39)年、外交官試験に合格して外務省に入ると、翌年、中国・奉天に在勤する。問題は、25(大正14)年に総領事として再度、奉天に赴任したときのこと。当時は、中国の軍閥政治家、張作霖が満州に勢力を伸ばしているときであった。日本はその張作霖を利用して権益の拡張を図ろうとしていた。

 そういう状況下で、外務省や陸軍だけでなく海軍や大蔵省も関係して「東方会議」という会議が27(昭和2)年、東京で開かれた。

 吉田は、軍事力を使った積極策を唱え、場合によっては武力行使もあり得ると、張作霖と交渉を始めた。すると、排日運動を引き起こすことになった。突出した吉田は結局、手を引かざるを得なくなった。窮した吉田は奉天病院に入院し、さらに静養ということで日本に帰ってきた。

 吉田は28(昭和3)年7月に外務次官になるが、このときにまとめた意見書「対満蒙私見」には、日本と満蒙(=満州および内蒙古の略称)は一体であり、そのために武力行使もやむを得ないとあり、典型的な「帝国主義的政策提言」だった。

 だから、占領下で公職追放になる恐れは十分にあった。事実、占領軍にはそのための調書ができていたのだ。それでも追放にならず、わが世の春を極めたのであるから、事実は小説より奇なりというよりほかはない。

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