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【語り継ぎたい天皇の和歌】佐渡に流されても和歌を修練し続け

 『小倉百人一首』の「ももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけり」の御製(和歌)で知られる第84代順徳天皇。掲出歌のような秋の歌も詠んでいることを御存知でしょうか。

 「つま木」は「薪にするために伐った小枝」です。「遠山人」は「遠くの山里を住まいとしている人」という意味です。木こりや炭焼職人、猟師などが「山人」にあたります。「薪にするための枝を伐っていた人が住処のある遠くの山へと戻っていく。どうか秋の三日月よ、その明るさで里まで送ってあげてほしい」という歌意です。

 1197年10月22日に生まれ、今から777年前の1242年10月7日に亡くなられた順徳天皇は、こんなに心優しい作品を詠むかたでした。

 後鳥羽天皇の第三皇子として誕生した順徳天皇。鎌倉幕府が成立して5年後のことです。武士の時代となり、武力で牛耳ろうとする人たちが増えていく中、王朝の復権をめざして、順徳天皇は父である後鳥羽上皇の幕府征討の方針に賛同して立ち上がります。平家の生き残りだった祖母のもとで育った順徳天皇の時代には、まだ心理的な源平合戦の名残もあったのかもしれません。けれども、後鳥羽上皇側は敗れ、後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳天皇は佐渡へと遠流(おんる)になりました。お二人ともそれぞれの遠流先で亡くなっています。

 藤原定家、鴨長明らとともに新三十六歌仙に数えられる順徳天皇。配流された佐渡でも和歌を詠み続けました。『順徳院御百首』は佐渡での御製集です。掲出歌はこの中の一首でした。

 勅撰和歌集『玉葉和歌集』にも採択された掲出歌。「待つ人のこころもしらぬふるさとになほ秋はてぬ蟲(むし)の聲(こえ)かな」という御製も残した順徳天皇。佐渡で書き上げた歌学書『八雲御抄』は後世に評価されています。定家が『小倉百人一首』で取り上げた順徳天皇は、艱難辛苦の果てにも和歌を修練し続けたかただったのです。

 和歌を学ぶこと--それは順徳天皇にとって、王とはいかにあるべきか、国家とはどうあるべきかを模索する作業でもあったことでしょう。(歌人、作家・田中章義)

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