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信長、秀吉らの書状は「実物」 歴史を塗り替える発見か (2/3ページ)

 同じく確認された織田信長の直筆書状の宛先は、現在の奈良県を治めていた戦国大名の筒井順慶。敵対していた大阪の石山本願寺に呼応するかのように松永久秀・久通父子が同じ奈良県下で謀反を起こした状況下、「明智光秀を丹波に派遣するよう申し付けた。筒井順慶は森河内城に勤番し、大坂への通路の警備や夜の待ち伏せなどに油断しないよう」と細かな注意を促す内容だった。

 どちらも戦国時代の戦術の研究に役立つ史料と期待されるが、この2人の書状よりも歴史的価値が高いとされるのが、室町幕府の2代将軍・足利義詮が配下の仁木義長に宛てた書状である。

 朝廷が2つ並立した南北朝時代。初代将軍の足利尊氏と並立状態を終わらせた3代将軍義満の間に挟まれたせいで、つなぎ程度に扱われがちな2代義詮だが、前述した山田教授は義詮の書状を評してこう述べている。

 「天皇とか将軍の字というのは王者の気分で生きていますので、字も大きいし常人では書けないような、良いのびのびした字を書くという特徴があります」(同前)

 義詮の人物像は地味どころか、きちんと帝王学を身に付けた大物というわけだ。足利将軍直筆の書状はただでさえ珍しいが、義詮のものであればなおさらである。さらに、その内容にも重要な点があった。

 「長谷城が没落したとのこと、おめでとうございます。このところ、心苦しく思っていました。詳しいことは代官が伝えます」

 従来、この書状は鎌倉幕府を開いた源頼朝のものと見なされていたが、足利義詮のものとなれば南北朝史は大きく見方が変わってくる。“つなぎ”と思われていた義詮の代に、南朝の重要拠点を陥落させたというのだ。足利義満の代を待たずして大勢が決していたとなれば、義満の功績に帰せられてきた多くが実は義詮のものであり、義詮が過小評価されてきたことになる。

 長谷城の陥落時期はおろか陥落の事実それ自体も、南朝目線で記された『太平記』や室町幕府の創立過程を記した『梅松論』をはじめ、当時の公家や僧侶の日記にも記されておらず、謎のベールに包まれている。今回の発見はその事実の確たる証拠になることに加え、陥落時期と長谷城の所在地を特定する手がかりになるとも期待される。

NEWSポストセブン

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