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【「麒麟がくる」外伝】躊躇なく自慢の黒髪を切り、夫・光秀の接待費を工面 煕子(木村文乃) (1/2ページ)

 「月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せむ」芭蕉。

 この句碑が、滋賀県大津市坂本の西教寺(さいきょうじ)の庭に建てられている。

 元亀2(1571)年、織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちした。延暦寺側は、自分たちが所有している寺領の一部を信長が無断使用していることに対する決着を、信長側は姉川の戦いで延暦寺に逃げこんだ敵側の兵の受け渡しを主張し、互いに譲らなかった。

 これ以外にも、双方に含むところあっての事件だった。明智光秀はこの後処理問題も含めて、その功績を認められ、信長家臣団の中で、信長から初めて、居城の建造を許された男になった。それが坂本城である。

 これについては、巷間(こうかん)、信長が初めて「一国一城の城建築を許したのは羽柴秀吉」という説が流布されているが、あれは「農民出身者として初めて」であって、信長家臣団としては、この光秀の坂本城が「初めて」である。

 そして、「本能寺の変」があり、その後の「山崎の戦い」で秀吉に敗れた光秀の坂本城は陥落する。本能寺の変の前に、「明智の妻」は、この坂本城で病死している。この妻の名は煕子。「ひろこ」と読む。

 この夫婦は相思相愛で、西教寺で煕子の葬儀が行われた際、信長の命で丹波攻略中の光秀がわざわざ葬儀に参列し、当時の人々を驚かせた。

 煕子は岐阜県土岐市にある妻木城を本拠とする、美濃の国衆・妻木広忠の娘で、美人だった。この夫婦にまつわるエピソードを、もう2つ。

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