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【勝負師たちの系譜】昇段を知った時は嬉しいというより…厳しすぎる「三段リーグ」 (1/2ページ)

 私は4年弱で三段に登り、塾生を出てアパート暮らしに入ったが、三段リーグは私の入会当時より、さらに厳しくなっていた。

 当時は東西に分かれてリーグを戦い、優勝者同士が決戦をして勝者が棋士になれる訳で、これが前後期で2人。最後に決戦の敗者同士の対戦で1人と、年に3人が四段になれる制度だった。東西決戦は奨励会の幹事でも、入室できない雰囲気があった。

 これが余りにも厳し過ぎると、奨励会の先輩達が理事に直訴に出たが、逆に敗者同士の決戦はなしの、年に2人の制度となっていた。新四段の誕生が、連盟の財政を圧迫していたのである。

 奨励会員は無給だが、私は先輩の故山川次彦八段、同米長邦雄永世棋聖、佐藤義則八段らから、稽古先(教えに行く仕事)を紹介して頂き、それで生活をしていた。

 当時は会社の福利厚生で、あらゆるジャンルの先生を呼んでの習い事があり、私も国税局、証券協和会や、三菱重工を始めとする一流会社等7~8カ所に、月に1度以上は通っていた。若い人に聞くと、今はそういう仕事がある人はほとんどいないという。これも時代の流れであろうか。

 指導に行くと、教えるだけでなく、教わることもあった。ある会社では囲碁の小山鎮男先生と隣同士になり、私が相手の悪手だけを厳しく指摘しているのと反対に、相手の良い手だけを誉める教え方は、大いに参考になったものだった。

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