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【「日本書紀」から現代へ 歴史と改革】国体を守ろうとした織田信長と豊臣秀吉 「江戸時代の三大改革」の普遍的価値 (1/2ページ)

 前回は、鎌倉時代以降の武家政治が建国以来の国体=国のかたちを危うくした側面を指摘したが、室町時代、第103代後土御門天皇の御代に生起した応仁の乱(1467~77年)も、そういう意味で大きな危機であった。

 目下教科書から一般歴史書まで、応仁の乱によって「室町幕府/将軍の権威が失墜」とばかり記すが、皇室の権威が失墜しかけたことの方が危機の本質であろう。

 後土御門天皇が崩御したのは明応9(1500)年で、応仁の乱が一応の終結を見てから20年以上経っていたが、財政難により43日間葬儀が行われないほどであった。御所は荒廃し、第41代持統天皇4(690)年以来、ほぼ20年に一度行われてきた伊勢の神宮式年遷宮が123年、皇位継承のため不可欠な大嘗祭(だいじょうさい)に至っては、天皇9代221年にわたって中断している。

 しかし、室町幕府は、国体を守るための改革を自ら行うことができなかった。そうした改革-御所修築や神宮式年遷宮再開、そして朝儀・寺社の復興に手をつけた人物が織田信長であり、継承したのが豊臣秀吉である。

 戦後、「信長が天皇に取って代わろうとした」といった根拠なき主張が半ば通説になっていたが、近年見直しが進んでいる。

 さて江戸時代に入ると、幕府の政策もあって仏教全盛となる。ややもすれば神道が軽んぜられる世情に危機感を抱く向きから、国学(と後に呼ばれる学統)が興った。「江戸時代の三大改革」と呼ばれるものも、その学統、そして『日本書紀』が伝える日本古来の精神から大いに影響を受けたものであった。

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