【ジュリア・ミント プーチンの国より愛を込めて】自由で粋だった友人の死 (1/2ページ) ジュリア・ミント プーチンの国より愛を込めて
ドブラヴィーチェル、親愛なる日本の皆さま!
先週、いつもはSNSのチャットだけで連絡を取り合うことが多い日本人音楽パートナー、トモキヒラタがいきなり私に電話をかけてきました。
「ロンドンからデビッドが亡くなったという連絡があった」
少しイギリスアクセントがかった英語で話すトモキの声は沈んでいました。
デビッドサーシェン(ドイツ語名ダヴィッドシェルヘン)は1990年代半ばに20代でロンドンに移り住んだトモキがUKの音楽業界で最も信頼する友人の一人であり、その交流は25年続いていました。
デビッドの父、ヘルマンシェルヘンは20世紀を代表するドイツの有名なクラシック指揮者の一人で、ヘルマン7回目の結婚にして彼が60歳の時にスイスで生まれたのがデビッドでした。
しかし、デビッドが14歳の時に父ヘルマンはイタリアの劇場で上演中に倒れ帰らぬ人となり、翌年後を追うように母親も亡くなり15歳で両親を亡くしたデビッドは一人でイギリスに渡りました。
その後の彼は、紆余(うよ)曲折を経てサウンドエンジニアとして活躍し、90年代初期にはロンドンに5つのレコーディングルームと2つのマスタリングルームを備えたスタジオを作りました。
◆スタジオ事業で評判
バウンデリーロウスタジオと名付けられたそのスタジオは低予算で借りれることや、デビッドの気さくな人柄も相まって人気となり、さまざまなジャンルのアーティストたちがこぞって使うスタジオの一つとなりました。
2000年代に入り50歳になったデビッドはスタジオを閉め、今度はプライベートスタジオを施工する仕事を始めました。そこでも、孫のような年齢のラッパーなどのリクエストに応じながらベストな自宅スタジオを低予算で製作するデビッドの仕事ぶりは評判を呼び、口コミを通じて次々と有名アーティストから注文が入ってきました。