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【明治日本から令和へ】令和日本に必要な「国家目標と器」 世界覇権を目指す中国に加担する日本人、工業を興すため奔走した「長州ファイブ」の器つくりを見習うべき (1/3ページ)

 明治維新の中心的役割を果たした長州藩は、九州から海を隔てた本州の玄関口にあり、九州と本州を隔てる馬関海峡(関門海峡)は「列島の喉仏」ともいわれ、江戸時代、日本の船舶が商都・大坂へと安全に物資を運ぶための、海運の要衝であった。

 1850年代、萩(現・山口県萩市)は毛利家が居城を構える政治の中心にあり、今もなお、城跡や城下町の町割りは、高度に階層化した江戸時代の封建社会をあらわしている。54年、米国東インド艦隊の江戸湾侵入に、攘夷の嵐が吹き荒れるなか、長州の思想家、吉田松陰は下田沖に停泊していたペリー艦隊に乗船を試み捕えられ、国許蟄居(ちっきょ)となった。

 松陰は萩の野山獄で私塾を開き、29歳の若さで処刑されるまで命の限り人を育て、志を育んだ。そこに、日本の軌道を変える大きな渦が生まれ、輪は人から人へと広がり、やがてそれは明治維新の胎動となり、日本全土を巻き込んでいった。

 塾生の一人、伊藤博文は63年、「生きた器械になる」という決意で国禁を犯し、横浜よりジャーディン・マセソン社の船に乗り、山尾庸三、井上馨、井上勝、遠藤謹助(=この5人を『長州ファイブ』という)とロンドンを目指した。それは命を懸けた航海であった。周りの国が次々と植民地になるなかで、帰国の途についた彼らは、国の安泰と発展を願い、維新に身を投じた。

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