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文在寅氏がスペインで見せられて狂喜した「独島の古地図」は、むしろ「韓国の嘘」をあばく動かぬ証拠だった (2/3ページ)

 当の韓国側の文献を調べれば、文氏や韓国政府の嘘がますます明白になる。15世紀に朝鮮で編纂された『世宗実録地理志』には、于山島についてこんな記述がある。

 「于山、武陵(鬱陵島のこと)の二島、県の正東の海中にあり、相去ること遠からず。風日清明なればすなわち望み見るべし」

 于山島が「竹嶼」のことであれば、鬱陵島からわずか3キロの距離だから、天気が良ければ「望み見る」ことができるのは当然だ。一方、本物の「竹島」は90キロも離れており、望遠鏡がある現代ならいざ知らず、当時はよほど天気が良くても鬱陵島から見ることは困難だし、「遠からず」と表現される距離ではない。さらに、その少し後に作られた16世紀の地理書『新増東国輿地勝覧』には、鬱陵島から望む于山島について、「樹木やふもとの渚が歴々と見える」と記されている。竹島には樹木はないから、これが竹島の記述でないことは明らかだ。まして、90キロも離れた竹島の樹木や渚が「歴々と(ありありと)」見えるはずがない。また、18世紀朝鮮の文献を集めた『東国文献備考』にはこうある。

 「鬱陵、于山はみな于山国の地。于山はすなわち倭(日本)のいわゆる松島なり」

 少し説明が必要だ。日本では古くは鬱陵島を「竹島」(おそらく竹林に覆われていたことによる)と呼び、現在の竹島は「松島」と呼んでいた。韓国は上記の記述を「于山は独島のことだ」とする根拠にしているが、ねじ曲げた解釈にも程がある。素直に読めば、日本が松島(現在の竹島)だけでなく、鬱陵島、于山島までを支配していたことを指すとわかる。これも多くの文献からわかっている史実と一致しており、その後、明治政府が竹島を正式に領土とする際に、鬱陵島、于山島の領有を放棄するかわりに「松島」を領有し、その際に名称を「竹島」に変えたのである。さかのぼると、江戸時代にも朝鮮の要請によって徳川幕府が鬱陵島に進出していた日本の漁民に渡航禁止を命じた記録がある。つまり、日本人はその頃までは竹島(当時は松島)はもちろん、鬱陵島や于山島まで進出して実効支配していたが、江戸・明治期に、鬱陵島と于山島は韓国に譲り、竹島を領有したのである。

NEWSポストセブン

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