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【承久の変と令和】後鳥羽上皇のイメージを変遷 令和に入って新たな動き 学問・スポーツの神として篤く崇敬 (1/2ページ)

 戦前における皇室の神聖不可侵のイメージと対置される格好で、戦後は「開かれた皇室」というあり方がメディアによって流布された。しかし、その行き着いた先は、皇室典範第23条に定められた「陛下」「殿下」の敬称が多くのメディアで使用されず、また皇族の婚姻について過熱報道される現状ではないか。

 現在の歴史教科書の用語表記についても、戦争の呼称について議論に上がることが多いが、それ以上に筆者が看過できないものがある。それが承久の変後に「三上皇が『配流』された」という表記である。「配流」とは流罪の刑が執行されることなので、天皇が罪を犯したのだと生徒に教えるも同然であろう。戦前までは「遷幸」、つまり変の結果、あえて御在所を遷しになったという表現であった。

 承久3(1221)年8月、後鳥羽上皇は隠岐(現・島根県隠岐郡)に遷幸し、帰京がかなわぬまま延応元(1239年)年、当地で崩御。行在所(あんざいしょ)であった源福寺の境内に火葬塚が造営され、江戸時代に松江藩主により廟殿が設けられたのち、昭和14(1939)年、隠岐神社(現・同県海士町)が創建される。翌年に紀元二千六百年(=『日本書紀』に記された建国から2600年)を控えての島根県の記念事業の一環でもあった。

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