脱北した日本人妻が手記「下は裸で、顔は真っ黒…」

★脱北者・斉藤博子さん 「北朝鮮に嫁いで四十年」草思社・1890円

2011.01.31


脱北者・斉藤博子さん【拡大】

 在日朝鮮人の帰国事業で北朝鮮へ渡った人たちのうち、日本国籍保有者は1831人。そのほとんどが日本人妻だ。多くが食料や生活必需品もない極寒の地で息絶えたり、厳しい暮らしを強いられている。著者は中国へ脱北して40年ぶりに帰国。閉ざされた世界に生きる庶民の暮らしを6冊のノートにびっしりとしたため、1冊の手記にまとめた。(文・鎌田 剛/写真・野村成次)

 ――出版のきっかけは

 「最初から本にしようと思っていたわけではないですが、朝鮮に行って、あったことを後々、子や孫たちに見てもらえたらと思って書き始めた。日本に帰国してからは仕事が終わったあと少しずつ書きためました」

 ――1961年、夫と北朝鮮へ。躊躇は?

 「子供も小さく(1歳)、離れて暮らすのはかわいそうだし、朝鮮総連の人から『3年したら帰ってこれるから、大丈夫だよ』『地上の楽園だ』と何度も。それでも私と兄嫁(日本人)は『行かないでおこう』と約束をしていたが、船に乗る直前に家族に『行きますね』と念を押された。私は何も言うことができず、行くことになってしまったのです」

 ――帰国船は東部の港湾都市、清津に着いた

 「船内スピーカーから『下りる準備をせよ』と聞かされてデッキに出た。前を見たら出迎えに来ている人たちの格好が、日本人も苦労していたが、もうそれ以上にひどかった。子供たちは下は裸で、顔は真っ黒。それを見て、『間違ってきてしまったな』と、1300人の帰国者みなが大騒ぎ。その中にいた日本人妻は5、6人でした」

 ――食料不足は深刻

 「最初は中国へ朝鮮の品物を密輸する状態が何年か続き、それが反対になって中国からどんどん物が入ってくるようになった。自分の畑で作物を作れたが、それを売らなければ油なんかの生活必需品は買えない。90年代より前だったか、『南朝鮮(韓国)で水害があり、米や医薬品、衣類をみんな出したから、こういう暮らしをするんだ』と説明されたのですが」

 ――金正日総書記を見た

 「70年代に工場で勤務していたころ『中央からお客さんが来るから仕事ぶりを上手いこと見せろ』といわれました。背が小さく、金日成にそっくりで、仕事の雰囲気を見て帰って行った。偉い人だとは思ったが、後でみんなが『金日成の息子だった』と話をしていて初めて気付いたのです」

 ――今も北朝鮮では多数の日本人妻が生活を

 「恵山(中朝国境の都市)には22人住んでいたが、2、3年前に日本へ帰国できた人に聞くと6人に減っていた。みんな80歳以上になり、年をとっているはず。1人でも日本に返してもらいたい。日本へ帰国してその思いは強くなりました」

■さいとう・ひろこ 1941年福井県生まれ。眼鏡職人だった在日朝鮮人の夫と59年に結婚。61年に1歳の長女を抱いて、北朝鮮への帰国船に乗った。その後、40年間、恵山周辺で暮らす。その後、2男3女をもうけるが、夫は94年に病死。後に長女と三女も亡くなったことを知る。2001年8月に帰国。

■「北朝鮮に嫁いで四十年」草思社・1890円

 1961年に「地上の楽園」と謳われた北朝鮮へ渡航し、両江道の恵山(ヘサン)に移住した。生きるために自ら開墾し、トウモロコシを売って生活必需品を手に入れる日々。公開処刑を目の当たりにしたり、娘が逮捕されるなど北での暮らしは苦労の連続だった。

 ある日、日本人妻がいると知った脱北ブローカーが『日本に電話をかけないか』と中国に渡ることを勧める。さらに『日本で働かないか』と促され、40年ぶりに帰国。スーパーで働きながら北朝鮮に残した子供たちに仕送りを続けた。そんななか、脱北ブローカーの「帰国の条件」をめぐり、想像だにしなかった事態に巻き込まれることになる。

 

注目情報(PR)