亀井茲矩 流浪の身から城主に 海外貿易で実業家の一面も

2014.05.16


イラスト・奈日恵太【拡大】

 毛利に滅ぼされた山陰の名家・尼子氏の再興に尽くした山中鹿介幸盛(ゆきもり)の名はあまりにも有名だ。NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では別所哲也が演じ、強い印象を残している。その幸盛と深い縁で結ばれ、ともに尼子再興を目指して戦った武将が亀井茲矩(これのり)である。

 茲矩は尼子の重臣だった湯永綱(ゆ・ながつな)の長男で、10歳の時に主家が滅亡。一族郎党は離散の憂き目に遭い、少年時代に流浪の身となった。一説には京都から伊予にまで逃れるなど苦難の人生を歩んだようだ。だが、幸盛が挙兵して因幡桐山城を攻略すると、17歳になっていた茲矩は幸盛のもとを訪ねて尼子再興のためにともに戦うことを誓った。

 城内の裏切り者の動向を察知し、これを討ち取るという手柄を立てた茲矩に対し、幸盛は信頼を高め、自らの養女を娶(めと)らせて義兄弟の関係となった。妻の実家である亀井の姓を名乗ったのはこれ以降のことである。

 上月城の戦いで尼子軍が毛利を迎え撃ったとき、茲矩は救援にきていた羽柴秀吉のもとにいた。しかし、織田信長が秀吉の援軍要請を無視して上月城の尼子軍は孤立。絶望的な状況のなか、幸盛に脱出を勧めるために秀吉の使者として決死の覚悟で城内に忍び込んだのが茲矩であったとされている。

 だが、幸盛は「自分だけ脱出しても残った兵が死ぬことになる」と脱出を拒否した。茲矩はともに上月城で死ぬことを懇願したが、幸盛の命により秀吉の陣に戻っている。結果、尼子は降伏し、幸盛は護送中に暗殺された。

 以降は、茲矩が幸盛に代わって尼子旧臣を束ねる立場となり、秀吉の配下となって活躍するようになる。鹿野城の守備戦では来襲した毛利勢の猛攻を奇襲によって撃退するなど、戦上手な一面を評価された茲矩は、ついに鹿野城主の地位を与えられ、1万3500石の大名となったのである。本能寺の変直後には、鹿野城主として毛利への牽制(けんせい)役を果たし、秀吉の「中国大返し」をアシストしている。

 以降も秀吉の家臣として忠実に働き、その死後は徳川家康に接近して関ヶ原では東軍に属した。戦後は功績によって加増され、鹿野藩の初代藩主として3万8000石を領している。藩主時代には用水路の整備や農業振興、銀山開発など行政面で手腕を発揮し、政治家としても有能だったようだ。さらには幕府の許可を得て朱印船貿易を行い、遠くシャム(タイ)とも交易を結んだ。

 山陰の小大名が海外貿易にチャレンンジしたことは画期的であり、世界に目を向けた実業家としての一面も大いに評価されるべきだろう。 (渡辺敏樹/原案・エクスナレッジ)

 

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