高取城 「天誅組の変」で見せた堅固な守り

★高取城

2014.09.13


高取城【拡大】

 高取城(奈良県高市郡高取町)は、備中松山城(岡山県高梁市)と岩村城(岐阜県恵那市)とともに「近世の三大山城」に挙げられる。

 城の起源は、南北朝時代に、この地方を支配していた豪族、越智邦澄(おち・くにずみ)が、高取山の山頂に砦のような城を築いたのが始まり。

 戦国時代に入ると、織田信長の大和一国一城令により、一時廃城となったが、天正12(1584)年に筒井順慶(じゅんけい)が大和郡山城(奈良県大和郡山市)の詰(つめ)城として再建する。

 天正13(1585)年、羽柴(後の豊臣)秀吉の弟、羽柴秀長(ひでなが)の家臣、本多正俊(ほんだ・まさとし)が高取城主となる。

 しかし、本多氏は世継ぎがなく嘉永14(1637)年に断絶。代わって、徳川幕府大番頭、植村家政(うえむら・いえまさ)が高取城に入城。以後、高取藩の藩庁として、明治維新まで植村氏が城主を務める。

 植村氏の時代には、南北に長い尾根筋に高石垣、22基の櫓、5基の多聞櫓、33棟の門、9の橋梁(きょうりょう)を備え、山城には珍しく水堀が設けられ、本丸上段には、3層の天守がそびえる城郭であった。また、城は城内と郭内に分かれ、城内は約1万平方メートル、周囲約3キロメートル、郭内は約6万平方メートル、周囲約30キロメートルに及ぶ、日本国内では最大規模の山城であった。

 文久3(1863)年8月17日、吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団が、公卿(くぎょう)、中山忠光(ただみつ)を主将として、大和国(奈良県)で決起する事件が起きる(天誅組の変)。

 このとき、高取城は天誅組の攻撃を受けるも、堅固な守りで退けたことで、一躍有名となった。

 現在、建物は明治の廃城令で取り壊されたが、天守台を含め縄張りはほぼ完全な状態で残っている。 =次回は鉢形城(埼玉県大里郡寄居町)

 【所在地】奈良県高市郡高取町高取
 【城地の種類】山城
 【交通アクセス】近鉄吉野線「壺阪山(つぼさかやま)駅」からバス「壺阪寺前」下車、徒歩約40分

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学客員教授、国際地政学研究所研究員。日本の城郭についての論文多数。

 

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