永栄氏が週刊朝日編集部員当時には、ワシントン特派員の船橋洋一氏(のちに主筆)の友人の原稿がボツになったところ、「もしも載らなかったら、経済部に戻さない」「載らなければ、社にもいられなくなるぞ」と激怒されたという。
中国やベトナムのルポで知られ、退社後は「週刊金曜日」を創刊した本多勝一元編集委員が山岳事故の取材で富山支局を訪れた際のエピソードも明かしている。本多氏は「酒、ありますか? 酒がないと原稿が書けない」と言うと、支局長の命で永栄氏が調達に走ったという。
元主筆の若宮啓文氏の友人の現役官僚が月刊Asahiに役所の内幕を寄稿した際のエピソードも。原稿が印刷に回る直前、「原稿を当局との取引材料にしていて、話がまとまれば原稿を引き揚げる」という若宮氏の話を伝え聞いた永栄氏は激怒した。「今にして思えば、若宮氏は友人の行く末を案じ、上司ともう一度話し合うことを勧めたのだろう」と振り返る。
このほか、昭和天皇崩御の際に「崩御」という言葉を使うことに強く反対した本田雅和記者と論争になった話、さらには共産党の機関誌「前衛」の原稿用紙を使っていた論説委員などの話も紹介されている。
そして、1960年代から70年代にかけて一部の学者と朝日のデスクたちが月に一度、開いていた「二木(にもく)会」という勉強会の存在についても記している。永栄氏は、「会の名称は正確ではないかもしれない」としたうえで、「ソ連や中国、北朝鮮報道などについて1つずつ朝日の紙面の方針を固めていった可能性がある。60年代までは多様な論調の識者が登場していたのが、70年代以降、左派文化人ばかりになった」と振り返る。