突然の出奔の真相は? 石川数正、信康切腹事件に不安感じ秀吉の元へ

2015.07.03


イラスト・奈日恵太【拡大】

 戦国時代には、主君を裏切ることなど珍しくはなかったが、この武将の裏切りは歴史上の大きな謎とされている。彼は絵にかいたような忠臣と思われながら、突然、主君のもとを出奔し、最大のライバルの家臣となったのだ。

 その男こそ、石川数正(かずまさ)である。数正は、三河の生まれで松平元康(徳川家康)が今川家の人質だった頃から、近臣として仕え、いわば竹馬の友のような関係にあった。

 家康が織田信長と同盟関係を結ぶ際にも、数正は大きく貢献している。だが、今川氏真(うじざね)のもとに人質として残されていた家康の正室と嫡男(信康)の身に危険が及んだため、数正はまさに捨て身の交渉を行い、今川家に近い鵜飼家の遺児を差し出すという人質交換作戦によって信康らを取り戻すことに成功した。

 後に、三河一向一揆が勃発し、本多正信をはじめとする三河家臣団の半数が家康と敵対して一揆側についた。この時は数正の父・康正も家康に反旗を翻したが、数正は自らも一向宗の信者だったにもかかわらず、浄土宗に改宗して家康に忠義を尽くしたのだ。

 その後は、家康に重用され、嫡男の信康の後見人になる。武田勝頼との長篠の戦いにおいても武功を挙げた。しかし、信康が謀反を企てた疑いにより、信長の命で切腹を命じられてしまう。数正にしてみれば、かつて自らが命懸けで取り戻した信康だけに、大変なショックだったことは想像に難くない。彼のことだから必死に助命工作を行った可能性もあるが、この頃の数正の行動については、なぜか徳川方の史料にはまったく書かれていない。

 やがて信長が本能寺に倒れ、羽柴秀吉が台頭すると、数正は徳川家の外交担当として秀吉との交渉役を任された。家康が秀吉と戦った小牧長久手の戦いでは、家康に和睦を進言したとも伝わる。そしてその直後、数正は一族郎党約100人を引き連れ、突然出奔したのである。

 その後は秀吉の家臣として仕え、松本10万石を与えられ、国宝として現存する名城の松本城を築いた。北条攻めなどに活躍した後、朝鮮出兵に向かう直前に陣中で病死した。享年61。あれほど家康に忠義を尽くした数正が、なぜ秀吉のもとに走ったのか、諸説はあるが真相は謎である。

 希代の人たらしと言われる秀吉に魅せられたとも言われるが、信康切腹事件で徳川家中での将来に不安を感じた数正が、リストラ回避のために先手を打って出奔したと筆者は見ている。事件当時の数正の行動が記録から抹殺されているのも気にかかるところだが、果たして真相はどうだろう。 (渡辺敏樹/原案・エクスナレッジ)

 

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