謎の出奔から華麗に復活 伊達成実、出戻り後は長老まで昇進

2015.07.10


イラスト・奈日恵太【拡大】

 伊達実元(さねもと)の嫡男として生まれ、伊達政宗のいとこに当たるのが、伊達成実(しげざね)である。政宗とは幼少の頃から兄弟のように育ち、後に重臣として仕えた。

 伊達家中においては、特に武勇に優れた武将として名をはせていた。伊達家が南奥羽の覇権を賭けて諸大名と戦った人取橋(ひととりばし)の戦いでは、劣勢の中で奮戦して政宗を逃している。続く郡山合戦でも大活躍。少数の兵で敵の攻勢をしのいだり、敵方の側面を急襲して劣勢を覆すなど、とにかく戦場での見事な戦いぶりで称賛される、勇猛な武将だった。

 そんなバリバリの花形武将だった成実だが、政宗が豊臣秀吉の小田原征伐に出陣した際には、黒川城に残って留守居役を務めた。さらに一揆扇動の疑いで政宗が上洛を命じられると、人質として蒲生氏郷のもとに送られるなど、不本意な役目が続いた。そんなある日、成実は突然、伊達家を出奔してしまったのだ。

 出奔の理由については、諸説あるものの史料が乏しく、謎とされている。武勇自慢の彼に不本意な仕事が続いた上、家中での地位も石川義宗に次ぐナンバー2にされたことに不満があったともいわれるが、それにしては行動が短絡的だ。軍記物では、政宗の密命を受けてスパイ活動を実行するための出奔という描き方もされているが、実際に、それらしき活躍をした形跡は見られない。

 脱走した彼がたどり着いたのは、相模とも高野山とも言われるが、その間に関ヶ原の戦いが勃発。腕自慢の成実のもとに、上杉景勝がスカウトにきたが断った。徳川家康も成実を家臣にしようとしたが、伊達家の妨害にあって断念したという。

 結局、成実は政宗の近臣である片倉景綱らに説得されて、関ヶ原の直後に伊達家に帰参している。その後は亘理(わたり)の地を領主として治めつつ、大坂の陣にも参戦。政宗の死後は藩主となった忠宗のもとで長老として支えた。領主としても、潅漑(かんがい)設備を充実させて農業振興や塩田開発に尽力するなど、政治家としても有能なところを見せている。成実は79歳の長寿を全うし、1646(正保3)年にその生涯を閉じた。

 武勇だけでなく、政治面でも非常に有能な人物で忠義にも篤かった彼が、出奔したのはどうにも不可解である。タイミングとしては豊臣秀次事件に際し、政宗のリストラの危機を回避するべく、嫌疑を自分が被ったとする説がもっともつじつまが合う気もする。

 どちらにしても、退社した会社に再び迎えられて重役に昇進したような、鮮やかな復活人生であったのは確かだ。 (渡辺敏樹/原案・エクスナレッジ)

 

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