三春城と愛姫 伊達政宗を支え続けた人質人生 (1/2ページ)

★三春城と愛姫(2)

2015.07.11


三春城跡【拡大】

 天正18(1590)年、豊臣秀吉が事実上の天下統一を果たすと、大名の正室たちは、人質として京都・聚落第(じゅらくだい)に集められた。伊達政宗の正室、愛(めご)姫も例外ではなく、聚落第の伊達屋敷に住むことになる。

 一方、秀吉は政宗に対しても、上洛をうながしたが、野心家の政宗は恭順(きょうじゅん)することをためらい、上洛の時間稼ぎをした。

 すると、愛姫は政宗に対し、「天下はいまだ定まらず。殿は天地の大義にしたがって、去就を決めたまえ。私の身を案じるなかれ、匕首(あいくち)をつねに懐に抱く。誓って他の辱(はずかし)めを受けず」という手紙を送る。愛姫の態度は、堂々とした正室の覚悟であった。

 政宗と愛姫の間には、なかなか子供が授からなったが、文禄3(1594)年、結婚15年目にしてようやく生まれたのが、のちに徳川家康の6男、忠輝(ただてる)と結婚する五郎八(いろは)姫だ。その後も愛姫は、秀吉が没するまで、人質として伏見、大坂暮らしが続いた。

 慶長4(1599)年、待望の嫡男、忠宗(ただむね)が生まれる。続けて男児2人をもうけたが、宗綱は16歳で亡くなり、竹松丸は7歳で早世した。

 秀吉に代わって、徳川家康が天下をとり、政宗が岩出山(いわでやま)城(宮城県大崎市)、つづいて仙台城(宮城県仙台市)の城主となってからも、愛姫は、人質として江戸の伊達屋敷で暮らしたため、領国に足を踏み入れることは、生涯一度もなかった。

 

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