出奔しても引く手あまたの有能武将、本多政重 家柄と勇猛さで7人の主君に仕え

2015.07.17


イラスト・奈日恵太【拡大】

 徳川家康の懐刀として有名な本多正信の次男が、本多政重(まさしげ)である。12歳の時に家康の旗本、倉橋家の養子となったが、ささいなケンカが元で同僚を切り殺してしまった。その相手が徳川秀忠の乳母の息子であったため、リストラを恐れて家康のもとにいられなくなった政重はたまらず出奔。18歳の若さで人生設計が大きく狂ってしまった。

 どうにか大谷吉継の家臣となり、2年後には請われて宇喜多秀家に仕えた。並外れた勇猛さを誇った政重は戦国の世では貴重な人材だったようで、さっそくヘッドハンティングされている。

 やがて関ヶ原の戦いが起こると、西軍の主力部隊を率いた秀家のもとで奮戦。前哨戦の伏見城攻めで大活躍を果たし、関ヶ原本戦でも最前線で井伊直政軍と対峙(たいじ)して派手に戦った。だが、敗色濃厚となり、敵陣に突っ込んで死ぬ覚悟を決めたところで主君の秀家が無事に逃れたことを知る。そこで自らも逃走し、近江にしばらく隠棲した。

 東軍方の残党狩りから逃れることができたのは、やはり本多正信の息子だったからだろう。正信は一向一揆で家康と敵対し、しばらく放浪した後に帰参して徳川の重臣となっていた。政重も本来なら徳川臣下の身であったし、とにかくリストラを逃れて福島正則に仕えたが、すぐに辞去。3万石という破格待遇で前田利長に召し抱えられている。家康に警戒されていた利長にすれば、徳川の重臣である本多家の人間を家中に置くメリットは大きかったはずである。

 ところが、薩摩に逃れていた秀家が捕えられると、厚遇してくれた前田家を辞去した。恐らく、かつての主君・秀家が死罪になると思い込み、殉死する覚悟を決めていたと思われる。だが、秀家の妻・豪姫の実家、前田家の尽力で秀家は死罪を免れて八丈島への流罪となった。死ぬ理由がなくなってしまった政重に急接近したのが、上杉家の重臣・直江兼続だった。

 上杉景勝も家康に敵対し、大減封されて辛うじて生き残った身である。徳川ににらまれる微妙な立場ゆえ、兼続は政重を利用したかったのだ。かくして政重は兼続の娘と結婚し、婿養子の形で直江家に入った。やがて兼続の思惑通りに徳川家の信頼回復に成功すると、自分の役目を終えたと悟ったのか、政重は円満に直江家を去り、再び前田家に戻っている。

 本多家の血筋を引く者として、上杉と徳川の関係修復に貢献できたと自覚した政重は、依然として徳川と微妙な関係にあった前田家に恩返しができると考えたのだろう。事実、その後は大いに貢献した。加賀藩が幕府に反逆の疑いをかけられてリストラの危機に陥った際には江戸に赴いて懸命に釈明して懲罰を回避している。

 その後も忠実に前田家に仕え、1647(正保4)年にこの世を去った。享年68。14年間に7人の主君に仕える波瀾(はらん)万丈の生涯だったが、引く手あまたの有能な武将だったことは間違いない。

 

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