国分城と島津家久正室、亀寿 夫を許せず養子に家宝

★国分城と島津家久正室、亀寿

2015.08.15


国分城【拡大】

 亀寿(かめじゅ)は、元亀2(1571)年、島津氏16代当主、義久(よしひさ)の三女として生まれる。

 天正15(1587)年、島津氏が豊臣秀吉の九州征伐に降伏すると、17歳となった亀寿は人質として大坂城(大阪市)に送られた。2年間の人質生活を終えると、父、義久の弟で、島津氏17代当主、義弘(よしひろ)の長男である久保(ひさやす)と結婚する。

 義久には男子がなく、長女も次女も島津氏の分家に嫁いでいたため、三女の亀寿が久保を婿に迎え入れ、本家を継ぐことになった。ただ、久保が朝鮮出兵(文禄の役)で病死したため、わずか4年の結婚生活だった。

 未亡人となった亀寿は、秀吉から久保の弟、家久(いえひさ)との結婚を勧められて再婚する。家久は、亀寿が5歳年上のいとこで、醜い容姿だったため躊躇(ちゅうちょ)したが、次代の島津氏当主の座が保障されるので結婚を決めた。結婚後の夫婦仲は決して良くはなかったようだ。

 慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦では、島津氏は豊臣方(西軍)に属したが、徳川家康に謝罪すると、本領を安堵(あんど)される。

 家久と亀寿の間には、子供がなかなか生まれなかった。このため、家久は慶長15(1610)年、家康を駿府(すんぷ)城(静岡市)に訪ね、徳川第2代将軍、秀忠(ひでただ)の次男、忠長(ただなが)を養子にほしいと無理は承知で申し出た。

 当然、断られたが、家久の目的は別にあった。自分が婿で側室を置くことができなかったため、家康の口から側室を置く許しを得たかったのだ。

 家久は側室を持てるようになると、側室を鹿児島城(鹿児島市)に住まわせ、義父の義久が居城としていた国分(こくぶ)城(霧島市)に亀寿を追いやってしまう。

 亀寿は家久の仕打ちに我慢できなかった。

 子供のいなかった亀寿は、家久への反発から元和8(1622)年、一番上の姉、御平(おひら)の孫である光久(みつひさ)を、自らの養子として島津氏の家宝を譲り、次代の当主に指名したのである。

 亀寿は死の間際にも、「島津氏の家系図は決して夫である家久には渡さぬように」と遺言を残し、夫、家久の冷遇に耐えながら60歳で亡くなった。

  =次回は江戸城と徳川秀忠正室お江
 【所在地】鹿児島県霧島市国分中央2の5の1
 【交通アクセス】JR日豊本線「国分駅」から徒歩約15分。

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学地方政治行政研究所客員教授、一般財団法人防災検定協会常務理事を務める。著書に『探訪 日本の名城 戦国武将と出会う旅(上巻・下巻)』(青林堂)など。

 

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