江戸城と徳川秀忠の正室お江(2) 子を産むごとに増す威光 (1/2ページ)

★江戸城と徳川秀忠の正室お江(2)

2015.08.29


江戸城天守台跡【拡大】

 羽柴(後の豊臣)秀吉と、織田信雄(のぶかつ)に味方した徳川家康が争った小牧・長久手の合戦が終わると、秀吉は「茶々(後の淀殿)が重い病気になった」として、妹のお江(ごう)を大坂城(大阪市)まで見舞いにこさせる。

 これは、お江と、夫の佐治一成(さじ・かずなり)を離縁させるための秀吉の嘘であった。お江は一成のもとに戻ることはなく、佐治氏は2年後に秀吉によってお取り潰しとなる。小牧・長久手の合戦で、一成が家康を助けたことを、秀吉は根に持っていたようだ。

 秀吉が次に、お江の相手として選んだのは、秀吉の姉、ともの息子である羽柴秀勝(はしば・ひでかつ)である。2人には完子(さだこ)という娘が生まれたが、秀勝が朝鮮出兵の際に巨済島(コジェド=韓国南部)で陣没すると、お江は再び秀吉のもとに戻る。

 秀吉がお江の3度目の相手に選んだのは、家康の三男、秀忠(ひでただ)だ。秀吉は当時、自分に次ぐ実力者の家康を抑える必要性があった。

 婚礼の儀は文禄4(1595)年9月17日、伏見(ふしみ)城(京都市伏見区)で執り行われた。このとき、お江は23歳、秀忠は17歳で、お江は姉さん女房だった。お江の1人娘、完子は淀殿が引き取り養育した。

 すでに秀吉の側室となった淀殿には、秀頼(ひでより)が生まれていたが、秀吉は、お江と秀忠との間に娘が生まれたら、秀頼の妻にする約束を家康と取り交わす。

 

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