蒲生氏郷の正室、冬姫と鶴ヶ城(2) 秀吉の側室拒否へ秘策

★蒲生氏郷の正室、冬姫と鶴ヶ城(2)

2015.09.26


鶴ヶ城【拡大】

 蒲生氏郷(がもう・うじさと)は朝鮮出兵の拠点だった肥前国名護屋(佐賀県唐津市)で病に倒れ、京都に戻る。文禄4(1595)年、2年間の闘病生活の末、伏見城(京都市伏見区)で、40歳の若さで病没する。

 氏郷の死後、蒲生氏の家中でお家騒動が起きると、慶長3(1598)年、豊臣秀吉は、跡を継いだ蒲生秀行(ひでゆき)を会津92万石から、下野(しもつけ)国(栃木県)宇都宮18万石に転封させる。代わって越後国(新潟県)から上杉景勝(かげかつ)が120万石を与えられ、鶴ヶ城(福島県会津若松市)に入城した。

 実は、蒲生氏の転封には別の理由があったと言われている。

 氏郷が亡くなったとき、正室の冬姫は女ざかりの35歳。未亡人になっても美貌は衰えることはなく、秀吉は再三にわたり上京を求めてきた。

 冬姫には、秀吉の魂胆が分かっていた。「上京すれば、秀吉の側室にさせられる」と。

 しかし、蒲生氏の家臣たちは、秀吉の求めを断り続ければ、お家の将来にマイナスになるとして、冬姫に要請を受け入れるように説得した。

 上京する決意を固めた冬姫はある秘策を考えた。出家すれば側室にならずにすむと。冬姫にとって、織田信長の血を引く自分が、秀吉の側室になることに我慢ができなかったのだろう。

 秀吉は冬姫を上機嫌で出迎えたが、その姿を見て愕然とした。その場は笑顔でもてなしたが、冬姫のとった行動に秀吉は怒り心頭となる。

 冬姫が秀吉の側室になることを拒絶したことが、蒲生氏が石高を5分の1に減らされて転封になった本当の理由なのである。

 蒲生氏が宇都宮に転封となって数カ月後、秀吉は亡くなる。関ケ原の合戦で豊臣方(西軍)に味方した上杉氏は出羽国(山形県)米沢に転封になり、徳川方(東軍)に味方した蒲生氏は、再び62万石を与えられ会津に戻ることができた。

 ところが、秀行は30歳で病没。跡を継いだ孫たちも相次いで早世したため、蒲生氏を継ぐ男子がいなくなる。

 冬姫は寛永18(1641)年、81歳という長寿をまっとうした。蒲生氏の断絶していく様を見届けることになったことは、辛かったに違いない。 =次回は虎御前と春日山城(新潟県上越市)

 【所在地】福島県会津若松市追手町1の1
 【城への行き方】JR磐越西線「会津若松駅」から会津バス「鶴ヶ城まわり」で約15分「鶴ヶ城北口」下車、徒歩約3分

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校材料物性工学科卒。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学地方政治行政研究所客員教授、一般財団法人防災検定協会常務理事を務める。著書に『探訪 日本の名城 戦国武将と出会う旅(上巻・下巻)』(青林堂)など。

 

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