和歌山県田辺市で11月13日、第2回世界遺産サミットが開催されました。このサミットでは世界遺産各地域における「さらなる連携と魅力発信」をテーマとし、いくつかの提案がなされましたが、その中で「価値と魅力を伝える語り部等の人材育成」という言葉が印象に残りました。
日本の世界遺産の中でも10代の頃から関心があったのは、平泉の文化遺産です。その理由は筆者と同郷(伊賀上野)の俳聖松尾芭蕉が「夏草や兵どもが夢の跡」という俳句を通じて平泉を紹介していたからです。すなわち、江戸時代に生きた松尾芭蕉という語り部が「奥の細道」という作品の中で平泉の価値と魅力を現代の私たちに伝えていたのです。
平泉は平安時代末期、藤原清衡(きよひら)・基衡・秀衡の親子三代のときに栄え、源義経をかくまったことから滅んだとされ、芭蕉と曾良はその奥州藤原氏が滅亡してから500年目にあたる元禄2年(1689)の5月に平泉を訪れました。そして義経の居館のあった高館の丘陵に登った後、中尊寺を参拝し「五月雨の降り残してや光堂」という有名な句を残しました。
句中の「光(ひかり)堂」は、中尊寺境内にあって創建当時の姿を伝える貴重な国宝建造物の金色堂を指します。建立は初代清衡で、堂内外の全面に金箔(きんぱく)が張られ、柱や須弥(しゅみ)壇にも蒔絵(まきえ)、螺鈿(らでん)、彫金を使った華麗な装飾が施されています。
しかし、金色堂を「光堂」とも称するのは建物が金色に光輝くからではありません。阿弥陀仏は無量光仏、すなわち「光仏」とも呼ばれ、「光堂」とは固有名詞ではなく、「光仏」の堂、阿弥陀堂の別名なのです。